初めての学年末試験は約10日程遅れて行われることになった。
全科目レポート提出かも…と先輩方の予想は見事に外れた!
普段は楽しく大学生活を送っている私たちも、
その期間だけは真剣に取り組んでいた(当たり前のことだが!)。
法学部ゆえか論文形式の試験問題が多かった。
1時間の試験時間に1問ないしは2問の問題に対して、
起承転結の考察を述べて行く。
試験は2週間で終わり、
同時に4月半ばまでの2ヶ月程の春休みに突入。
そして約1年通った大宮校舎へ行くことは、
新入生勧誘以外は無くなった。
余りにも遠かったので、正直良かったと感じていた。
長い春休み…。
サークルとしての活動も無く、
とても暇だった…!
ボケっとしている私に母は、
「しばらく牛堀に行って来たら」
と勧めて来た。
牛堀とは旧茨城県行方郡牛堀町(現潮来市牛堀)にあった母方祖母の実家のことで、
F屋という蕎麦とKという喫茶スナックを営んでいた。
今は亡きM大叔父取り仕切り、息子である母の従兄弟TO兄とTA兄が働いていた。
私も子供時代から何度も遊びに行っていた。
母が大叔父に電話するとすぐ来い!ということになった。
翌日午後にF屋に顔を出すと、
「腹減ったっぺ…何食うだ」
と大叔父。
「ラーメン食べたい」
「ラーメンなんてそんなしょぼいもん食うなって」
数分後、私の前には叉焼大盛りのチャーシュー麺が置かれた。
居候と言っても閑なので、ウエイターや出前の手伝いをさせて貰った。
東京と違い距離があるので、出前はもっぱらカローラバン。
初心者マークの私はバンパーやボディをぶつけてしまったが、
「誰だって始めはそんなもんだっぺ」
とても心の広い大叔父だった。
そして、大叔父、大叔母、TO兄、TO兄嫁(H子さん)が、
私の顔を見ると、
「何食べる?」
と必ず聞いて来た。
約1ヶ月近く厄介になったが、3~4kg太ってしまった。
F屋の2階はKと言う名の喫茶スナックで、
午後からTA兄が切り盛りしていた。
昼時ピークが終わると、忙しくない限り私はココにいた。
そして夜は毎日飲んでいた。
TA兄が地元の友達を何人も紹介してくれて、
1週間も経つと彼らが遊びに誘ってくれるようになった。
牛堀の人たちは口は悪いが心はとても暖かく、
楽しい時間がゆっくりと流れて行った。
大叔父は私が東京へ帰る時に、
アルバイト代と称して少なくない金額をくれた…。
固辞すると、
「若い奴が遠慮しちゃ駄目だっペ…」
そう言った。
19歳だった私にとってかけがえのない1ヶ月間だった。
今でもこの時のことを思い出すと心が暖かくなる。
春休み最後のイベントとして、
倉敷と京都へ一人旅をして風疹になって帰って来た。
(顛末は前にブログに投稿済みです)
牛堀で流行っていたので、伝染ったのだと思う。
1976年4月、私は無事に大学2年生になった。