前の記事で、『アクアマン/失われた王国』にMCUやスター・ウォーズを彷彿とさせるシーンが多く、それ故にディズニーへの「ラブレターでしかない」という表現を使った。
同じ話を映画好きの知人としていたところ、「ジェームズ・ガンがDCに移籍した当然の結果では?」と指摘された。

確かに、マーベル・スタジオで『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を製作したジェームズ・ガンは現在DCスタジオの共同経営者だ。
監督としてはDCで『ザ・スーサイド・スクワッド”極”悪党、集結』を製作している。
本作は『ガーディアンズ』と同様、「寄せ集めの負け犬集団がなけなしの正義感の下に連帯し、巨悪に打ち勝つ」というジェームズ・ガンらしいヒーロー作品に仕上がっている。

一方で『アクアマン』においては、上記のような「ジェームズ・ガンらしさ」が発揮されている訳ではない。
ジェームズ・ガンが関与すらしていないMCU作品の色々な要素がちりばめられているだけであり、その意味で「ラブレターでしかない」という表現は間違ってはいないと思っている。

また、ディズニー側からのジェームズ・ガンへのラブレターも同様に存在するように思う。
ウォルト・ディズニー・カンパニーの創立100周年記念作品として2023年に上映されたアニメ映画『ウィッシュ』だ。
本作には『ザ・スーサイド・スクワッド』における「ジェームズ・ガンらしさ」を象徴する「ドブネズミの大群が巨大なモンスターをやっつける」シーンに酷似したシーンがある。
ディズニー傘下であるマーベル・スタジオを去ったジェームズ・ガンへの餞別だと想像すると感慨深く、その意趣返しとして『アクアマン』の各シーンがあると考えるとたまらなく愛おしく思える。
あくまで想像に過ぎないが。

 


さて、ジェームズ・ガンの作家性やマーベルからDCへの移籍にまつわるエピソードは別の記事でも取り上げた『町山智浩のアメリカスーパーヒーロー映画徹底解剖』に詳しい。
そして本書にはこう書かれている。

「スーパーヒーロー映画は、商業主義の子供だましと言われることもあります。
たしかにそういう映画もありますが、ライアン・レイノルズやジェームズ・ガン(中略)のような映画作家たちは、スーパーヒーローという題材を自分個人の問題に引きつけて、そこから世界の現実をえぐります。
そして、その映画を観た人々は人生のなかで選択に迷った時にこう思うでしょう。
『ヒーローだったら、どっちを選ぶ?』
実はアメリカン・コミックの名作の多くがそうであり、日本のマンガやアニメ、特撮もまたそうでした。人々の心をつかむ作品は特に。」

「日本のマンガやアニメ、特撮もまたそうでした」とあるが、それを持ち出すまでもなく「ヒーローの本質」について提示し続けているのが、東映特撮ヒーローシリーズにおける重鎮、脚本家である井上敏樹氏だろう。

井上敏樹作品には、ヒーローを相対化させる存在が度々登場する。
「ヒーローよりハイスペックだが生意気な後輩」的なキャラクターだ。

『仮面ライダー555』の氷川誠(G3-X)に対する北條透(V-1)、『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』におけるドンドラゴクウ/ドントラボルト、劇場版『仮面ライダー剣 MISSING ACE』における新世代ライダー達、いずれもこれに該当する。

本題からは逸れるが、劇場版『仮面ライダー剣 MISSING ACE』について、公式(東映ビデオ株式会社)のHPで「TVシリーズ終了4年後のストーリー」「TVシリーズの最終回から始まる、全く新しいストーリー!」と位置付けられていることにどうしても違和感がある。

TVシリーズの『仮面ライダー剣』では、主人公の剣崎=仮面ライダー剣は敵である「アンデッド」を次々と封印するが、最後のアンデッドであり世界を滅ぼす可能性を秘めた「ジョーカー」をどうしても封印できないでいる(本作ではトランプの絵柄や数字が重要な意味を持っている)。
ジョーカーの正体が仮面ライダーカリスであり、更にその正体は剣崎の盟友、相川始(ハジメ)でもあるからだ。
このようにヒーロー側が容易に敵側にもなり得る、逆もまた然りという要素も井上作品に共通する要素である。

剣崎は、特異な体質を利用して自らもジョーカーになる道を選択する。
2体のジョーカーが存在することによる均衡状態を作り出し、それによって世界の滅亡を回避するためだ。
ただし、副作用もある。
剣崎とハジメは二度と戦ってはならず、それ故に剣崎が人間社会を去る必要があるのだ。
それでも尚、剣崎は友であるハジメのために笑顔で去っていく。
この切なさこそが本作の最後にして最大の見どころだ。

ところが、劇場版では冒頭で剣崎がハジメをあっさり封印するところから始まる。
それは単にTVシリーズで起こっている出来事と違うというだけでなく、剣崎の選択や価値観がまるっきり異なることを意味する。
その意味で、劇場版は4年後の世界を描いているにしても『仮面ライダー555 パラダイス・ロスト』と同様、TVシリーズとは異なるアナザーワールドだと思っている。

実際、小説版はTVシリーズの300年後の世界を描く後日談であり、平成ライダーシリーズの集大成であり過去のライダーがほぼ総出演した『仮面ライダージオウ』はハジメが封印されなかった世界線で作られており、しかもそのことが作品上で重要な意味を持つ。

つまり、劇場版だけが他の何とも繋がっていない=正史ではないのである。

面白いことに変わりないのだけれど。

 

 

本題に戻るが、「ヒーローよりハイスペックだが生意気な後輩」は、1991年に放映開始した『鳥人戦隊ジェットマン』に既に現れている。
第40~41話に登場したネオジェットマンが正にそうだ。

ジェットマンがリーダーの竜以外、アウトローや農家、女子高生にお嬢様といった正規の訓練を受けていない素人であるのに対し、ネオジェットマンはエリート集団である。
ジェットマンが苦戦した敵でさえもあっさり退治してしまう戦闘能力を持っている。
エリート意識を隠そうともしない鼻持ちならないネオジェットマン。
だが、危機に陥った際には、落第者とされ変身能力すら奪われた生身のジェットマンに救われたことで、自らの狭量な考えを改める。
そしてネオジェットマンの変身エネルギーをジェットマンに与える。

その際のセリフが「ヒーローとは何か」ということを端的に示している。
「俺達は力だけにこだわり、人を愛し、平和を愛する心を忘れていた。俺達は戦士としての力を失うが、君達は真のジェットマンだ」

そう、ヒーローをヒーローたらしめるものは戦闘能力や変身能力ではない。
人と平和を愛する心、そして危機を前にしても決して諦めない強い意志なのだ。
他の作品でも「生意気な後輩」達にはこの気質が欠けている。

変身とは「どう生きるか」という意志の表示である。

『仮面ライダー555』シリーズにおける敵である「オルフェノク」は人類の進化系であり、人類を殺す本能を持っている。
一方で、オルフェノクでありながら仮面ライダーと同じ側に立って人類のために戦う者も存在する。

スネークオルフェノクに変身する海堂直也がそうだ。
海堂は最終話で人類を滅ぼし得る存在であるオルフェノクの王と戦う際、「変身!」と叫んでスネークオルフェノクになる。
この掛け声はそれまで仮面ライダーの専売特許だった。
人類を守るために戦うからこそ、オルフェノクも種族の差を超えてヒーローになる瞬間だ。

個人の幸福か、人類の存続か。
『町山智浩のアメリカスーパーヒーロー映画徹底解剖』で述べられている通り、ヒーローは常に究極の選択を迫られる。
常人であればどちらかを取ることでどちらかを捨てなければならない。
どちらも守ろうとするからこそヒーローなのだ。
そして、どちらか一方しか守れない場合、世界を守るために孤独を選ぶ剣崎やオルフェノクでありながらオルフェノクの王に立ち向かう海堂のように、迷わず個人の幸福を犠牲にすることができるのがヒーローだ。

剣崎や海堂と同じくヒーローの本質を地で行っているのが氷川誠だろう。
正義感の強い警察官である氷川は、特殊強化服を着用することで仮面ライダーG3-Xに変身する。
つまり、生まれ持った才能で変身する訳でもなければ、神のような上位存在に選ばれて変身する訳でもない、等身大の人間だ。
それどころか真面目過ぎて融通が利かず、不器用な人間でもある。

劇場版『仮面ライダーアギト PROJECT G4』において、氷川はコンプレックスに苛まれる。
仮面ライダーアギトに変身する津上翔一は明るく無邪気な性格で、「生を無条件で肯定する」強さを持っている。
G3-Xの上位互換システムであるG4を扱う水城史朗は、自らの悲惨な経験から生への執着を捨て「死を背負って戦う」覚悟がある。
氷川はそのどちらに徹することもできず「中途半端」と自認する。

しかし、そこで彼の歩みが止まる訳ではない。
中途半端でも「生きることを素晴らしいと思いたい」と言う。

暴走するG4を止めるため氷川は戦うが、圧倒的な戦力差によってマスクが半壊するほどのダメージを負う。
そこで指揮官である小沢澄子は「G3-Xとしてではなく、氷川誠として戦いなさい」と指示する。
半壊したマスクを脱ぎ捨てる氷川。
G3-Xから氷川誠に「変身」する瞬間だ。

TVシリーズの最終回で彼は堂々と言い放つ。
「ただの人間だ!」

ヒーローに変身することは「どう生きるか」という問題であり、変身ベルトや特殊強化服がなくてもできることだ。
必要なのは強い覚悟だけだ。

漫画『僕のヒーローアカデミア』における圧倒的ヒーロー・オールマイトは言う。
「怖い時、不安な時こそ笑っちまって臨むんだ」

また、桂正和氏の漫画『ZETMAN』において、主人公のジンは幼少期にある警察官に言われた言葉を胸に生きている。
「辛い時こそ顔を上げてるんだ。地べたに希望は転がってねぇぞ」

私達はただの人間だ。
それで結構ではないか。
人間として堂々と胸を張り、困難を前にしても顔を上げ、そして笑って生きようとすることは充分に強いのだから。
日本の特撮や漫画(アニメ)はそれを教えてくれる。

なかなかどうして、日本にもアメリカにも素晴らしいヒーローがいるものだ。