以前に、開拓奉仕の要求時間の変更に対して、「エホバに心から感謝」というような反応をしている人をビデオで紹介していたことに関して、それはちょっと違うんじゃないのっていう記事を書いた。
もう一つ感じる点を書いてみようと思う。
開拓奉仕の要求時間は、以前は70時間だった。それは、ある人にとっては、まあまあ簡単なことで、ある人にとっては、かなり頑張らないとできないことだ。人の状況、仕事、収入、健康、家族の必要など様々だからだ。
これまでも私も長い間、ずっと開拓奉仕をやってきた。というより、やっていないときのほうが少ない。要求樹幹が90時間の時から始めた。しかし、今その開拓奉仕を健康、家族の必要などで降りてみて気づいたことがあった。
自分の健康、自分の老後、家族の必要をもっと顧みるべきだった。なぜ、自分は、それを考えずに、開拓奉仕を下りなかったのだろうか
それは、
①「開拓奉仕」という立場にすがっていたかったのが大きかったと思う。
そして、もう一つは、
②絶妙な要求時間の設定だ。
①について、
エホバの証人は、「全時間奉仕」という言葉がある。
補助開拓=月50時間、今は30もしくは、15時間。全時間奉仕ではない。
これ以下は「全時間奉仕」
正規開拓=月70時間、今は50時間。無給、自分で働いて生活する。
特別開拓=月140時間?、今はよく知らない。基本有給
ベテル奉仕=ベテルに住み込みで働く。有給
コミューターベテル奉仕=週に一日以上、通いで。その分の手当てがあるかは知らない。最近では、必ずしも蛯名ベテルにいかずに週のうち何日かをPCで働き、ネットなどで会議するパターンもある。
テンポラリーベテル奉仕=一時的に、最小2週間から、最大3か月まで、住み込みでベテルで奉仕する。
「全時間奉仕」というレッテルがつくと、開拓者の集まりとかに出られたりとか、事実上ランクがあがり、自分の中でも、また組織内でも、自分は結構頑張ってる、という感触がある。
そして、正規開拓奉仕(「全時間奉仕」)者になると、開拓奉仕学校に参加できる。これに参加すること自体が一種のステータスとなり、終了後にみんなから、どうだったと聞かれ、ちやほやされる。また、一週間の開拓奉仕学校の際の昼食は、近隣の会衆が用意することになっている。周りの会衆も開拓奉仕学校に参加している人たちに支援をしなくてはいけない。補助開拓奉仕を毎月連続している人はだめだが、正規開拓者は、特別で、立派な存在で、みんなから感謝されるべき、というような、一種の見えないメッセージが伝わってくる。
まわりもそのようにちやほやするので、やっている人たちも自分たちは、頑張っているんだ、えらいんだ、という一種の自己満足に浸ることができる。
これが、1970年代、80年代なら、実際に、正規開拓者たちがたくさんの研究生を見つけ、エホバの証人の増加に貢献してきたのは事実だろう。つまり、目に見える満足感があった。つまり、その「開拓者」という立場だけでなく、実際に自分が必要とされていると感じられる、研究生がいるゆえに、開拓奉仕を続けたいと思うのだ。
しかし、今となっては、研究生のいない開拓者は、たぶん半数以上、もしかしたら6,7割くらいではないかと思う。
(2023年の研究数/伝道者数が、0.42。研究数のうち、自分の子どもの研究の含まれるので、それを引くとおそらく、もっと低いと思う。)
ももきちさんのブログを参照しました!いつもありがとうございます!
つまり、実際には、研究生もいない、開拓者は、実際に感じる満足感はないといってもいいだろう。だって、それでも、その「正規開拓」をつづけたいと思うのは、一つの理由は、その立場、つまりレッテルをキープしたいという気持ちだろう。
若い人であれば、いい人(異性)と出会いたいと思うのは当然だし、「開拓者」であれば、開拓奉仕学校という出会いの場があるし、建設奉仕やメンテナンスの奉仕という出会いの場に、参加するのに、長老からの推薦が受けやすくなる。そして、実際に誰かに出会った時も、開拓奉仕というレッテルがあれば、自分のセールスポイントが上がるわけだ。そして、親たちも、子供たちがいい人と結婚してもらいたいから、仕送りしてでも、開拓奉仕をさせて、いい人と出会い、結ばれることを願うのだろう。若い人、またその親であれば、当然の願いでもある。
また、年配の人たちも、結構車の運転が危なくなって、免許返納が勧められる状況になっても、また、周りの人に世話になりながら、その「開拓奉仕」というステータスにすがっている人も多いと思う。
これは、会社でも、また、アメーバのように無料のグループであっても、なんでもそうなのだが、参加者が、頑張れば、ステータスを挙げる、特典をつける、みんなから尊敬される、というシステムを作ろうとする。一種のゲーム感覚にする。これは、決して悪いことではない。それは、目的のため、つまり、会社であれば、売上をあげること、また、スポーツや趣味をさらに広げるといった目的のために、そのようなシステムを作り、参加者が楽しめるようにするのだ。ステータス、特権意識、そのサークル内での尊敬などを得させる。
問題は、そういった会社や、サークルでは、そのグループ内だけのことということだ。例えば、会社で売り上げNo1の営業マンが会社内でステータスがあるかもしれないが、それは、その組織内だけのこと。それは生活の一部に過ぎず、そこで一番になっても、家族との関係や、友人関係において、どう思われるか、その人自身の自尊心のレベル、趣味や生活での充実移管というのは全く別だ。逆に、仮にそこで最下位だったとしても、家族や友人菅家において、また自尊心において、充実している場合もある。また、いやならいつでも辞められる。会社内での立場はあくまでも、生活の、また人生の中の一部に過ぎないのだ。
それに対して、エホバの証人組織内の「立場」というのは、生活のすべて、人生のすべてなのだ。つまり、そこで失敗すると、自分の生活すべて、人生全てを棒に振ってしまうことになりかねない。時折、「立場」に仕えているわけではない、とか、「立場」は重要ではないというものの、組織内では、その「立場」が、ものすごく強調され、自分自身に対しても、それを求めるよう圧力を感じるだけでなく、周りのひとも「立場」という履歴書を通して周りの兄弟姉妹をみるようになるのだ。
ものみの塔の研究記事などを通して、「長老」という立場をとらえた人をいわばたたえる内容がしょっちゅう扱われ、また、その「長老」という立場にあるひとを周りの人は絶対に尊敬しなくてはいけないという内容が扱われたりする。実際には、いい「長老」もいれば、非常に正確の悪い「長老」もいる。また、ことあるごとに「長老」に相談するようにとか、「長老」に従うようにという指示が来る。いわば、「長老」をある意味アイドル視させることになる。
「開拓者」に関しても、同じことが行われている。ものみの塔だけでなく、大会などの経験をとおして、どれほど大変な状況にあっても、「開拓奉仕」を続けた、家族の反対があっても開拓奉仕を始めた、などの経験を語っている。逆に、比較的に若い人で子供がいないひとは、開拓奉仕をしていないとまわりから、「なんでしてないの」という目で見られるようになる。ましてや、開拓もせずに、全日の仕事をすると白い目で見られる。
逆に親のすねをかじっていたとしても、年金を払わなかったとしても、生活保護を受けていたとしても、あるいは、周りからいかにもみすぼらしい恰好や生活スタイルをしている人でも、また、年配の親の世話を拒否していたとしても、「開拓奉仕」というステータスがあると、とりあえず周りからは尊敬されるのだ。そういった、ネガティブな面は、大会や出版物で語られることなく、開拓奉仕をしていることだけが語られる。
エホバの証人の中に、ランクをつけるための方法としか思えない。個人個人の、健康状態、家族の必要、経済状態、性格、などなど、よく考えて判断するのではなく、「開拓奉仕」というステータスをつけておけば、安心、と売り込んでいる。初めて集会に行く、研究生は、全くわからず、みんなが同等に見えるかもしれないが、実際には、上下関係があり、そのしがらみや、嫉妬、恨みなどなど、ネガティブなしがらみがたくさんあるのだ。
なぜこの「開拓奉仕」というのレッテル、立場をつけるのか、なぜ要求時間数でこの名称やランクが変わるのか、なぜ一生懸命頑張ることより、「開拓奉仕」という立場を得るよう、進めるのか。正直、エホバの組織として、あってはならないことではないか。
長くなってしまったので、②絶妙な要求時間の設定については次回に。