S社の翻訳・通訳部門に詰めた2010年5月中旬から工業・技術英語との戦いが始まった。当初は毎日がいわゆる「生みの苦しみ」の連続だった。日々の英訳および校閲(チェック)実務の中で工業・技術英語独特の文体や表現、また語彙を理解し吸収していった。
日本製鉄㈱は、既に昭和の頃から社内で使用される専門用語の英和・和英用語集(紙ベース)を編纂しており翻訳や通訳でそれを辞書として使用していた。さらに以下のような書籍を購入して自宅や職場で随時使用した。
・「和英・英和 国際環境科学用語集」(KITA環境協力センター編/日刊工業新聞社)
・「機械を説明する英語」(野澤義延著/工業調査会)
・「続・機械を説明する英語」(野澤義延著/工業調査会)
・「図面の英語」(板谷孝雄著/総研出版)
S社の翻訳・通訳部門の起源は、工業図面内の「図面注記」に英訳を併記するサービスを提供し始めた1960年代に遡る。それをベースとして技術仕様書や取扱説明書などの工業・技術翻訳へと事業を発展させてきた経緯があった。
「図面注記」は日本語自体も省略された簡潔な表記が多くてわかりにくい。これは図面上のスペースが限られていることも理由だが、まず日本語の意味をしっかり理解し、それをさらに簡潔な英語で表現しなければならなかった。日本語の意味がわからず設計部門のエンジニアに確認することもしばしばあった。
当初は10:00~17:00くらいまでだった作業時間も、毎日9:00~20:00近くまでになり、さらに土・日に出勤することも多くなった。収入は当然にして増えたがサン・フレアやサイマルの案件に対応できなくなってきた。
そんな葛藤の日々の中、梅雨が明けて2010年の記録的猛暑が始まった。朝から36℃という日々が続いていた。そんな2010年8月、ある決断をした。それは「S社の近くに転居して工業・技術の翻訳に専念しよう!」というものだった。
実際のところGさんは既に60代だったが後継者がいない状態にあった。S社の翻訳・通訳部門はそれなりの収益を上げており誰かが後を継がざるを得なかった。自分のためにもS社のためにも「自分がいずれはS社翻訳・通訳部門を引き継ごう!」との意思を固めた。
2010年盛夏。JR九州工大前近くのアパートに転居した。苦渋の決断だったが、今にして思えば正解だったようである。アパートの周りは学生街だったが夏休みで通りも大学の構内も閑散としていた。
S社の人材は工業高校の機械科や高専、また大学の工学部など理科系の人材が殆どで自分のキャリアは随分と異質だったように思われる。それもある意味ストレスだったが、兎も角も、当時は英語を通じて工業・技術の世界を少しでも理解しようと必死に格闘する日々が続いていた。
JR九州工大駅前の学生街には学生向けの安い食堂や居酒屋も多かった。そんな食堂や居酒屋を利用しながら、猛暑が続く中も真面目な学生たちに囲まれた生活を通じて、ストレスに満ちた心が次第に解き放たれていった。