効率化の牙城にて(その32)-補遺-五日市街道のグルメたち | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

東京での7年半、寮も職場も五日市街道沿いにあったため、外食も五日市街道近辺が殆どだった。五日市街道と言っても、武蔵野市、保谷市(現・西東京市)、小金井市、小平市、国分寺市あたりの食べ物屋が中心だった。

 

昼食は事務本部からマイカー乗り合いで行くことが多かった。忙しい中でも腹は減る。食欲旺盛な若い頃、昼食は楽しみの一つだった。

 

小金井公園近くのハンバーグ「ウッドストック」とそば処「田吾作」。いずれもよく行った。私が所属するデータ管理チームには「新人は最初のボーナスを貰ったときにはチームの男・女先輩方に『ウッドストック』のハンバーグをおごらなければならない」という悪習が存在した。

 

チーム配属直後の19836月、理不尽な気持ちを抱えつつ、泣く泣く先輩方にハンバーグをおごった。先輩のSYさんは一言「まあ!皆やって来たことだ!」と言った。

 

「ウッドストック」はハンバーグの焼き方が選べてソースの種類も多く「納豆ソース」というのもあった。本格的なハンバーグを食べたのはここが最初だった。残念ながら20198月に店が火事になり20203月に閉店したらしい。

 

白い壁と緑色の屋根、黄色にこげ茶色の「WOODSTOCK」の文字。懐かしい思い出である。

 

https://osietesite.com/gourmet/tokyo/yosyoku/niku/woodstock 

 

 

そのすぐ側のそば処「田吾作」。ここもよく行った。煮込みうどんなど関東風うどんを初めて食べたのはこの店だった。餅が入っているうどんも初めてだった。九州では鍋で煮込むのは「鍋焼きうどん」しかなかった。それにしても関東のうどんの出汁は黒かった。

 

丼物もあり夏には「うな丼」を頼むことが多かった。先輩を含めて何人かで「田吾作」に行ったある日、「うな丼!飯大盛り!」と私が頼むと、ある先輩が「飯ではなくうなぎの大盛りはないですか?」と店員に尋ねた。

 

「さすがにうなぎの大盛りはできませんねぇ~!」と弱った顔の店員に思わず笑った。そんなつまらないジョークが、忙しい仕事の中で一服の清涼剤となっていた。

 

 

小平に「イエスタディ(Yesterday)」というファミレスがあった。ファミレスというよりはカップル向けのレストランという感じで「男だけで入っても大丈夫?!」みたいな印象を受けた。小さな森の中のモスグリーンの看板があるお洒落な建物だった。

 

そこに「ご隠居カレー」と呼ばれる場違いなデカ盛りメニューがあった。課の先輩たちに「○○!全部食べきったらおごってやるぞ!」と言われ、挑戦してみると全部食べきれた。

 

翌日、このことが課内でニュースとなり「○○は大食い」と言われるに至った。以後、先輩たちが私を「イエスタディ」に誘うことはなかった。

 

 

小平には「スエヒロファイブ」というファミレスもあり土・日「いいとも会」メンバーでよく行った。腹が減っていれば「普通のセットメニュー+一品+ライス大盛り+サラダ」くらいは食べていた。

 

ここで「HYのITのライス勝手食い」事件が発生した。HYはスパゲティの単品を頼んだが、テーブルに置かれたITのセットメニューのライスを勝手に食い始めていた。まあ、家庭では、スパゲティ+ライスは普通にあることだが ……。

 

ここのメニューは全般的に「肉系」で我々の若い胃袋を十分に満たすものだった。会員全員が寮にいた「いいとも会」全盛期のグルメだった。

 

 

最後に、小平に「満北亭」というラーメン・餃子の店があった。行くのはいつも深夜だった。赤い看板と入口に並んだ赤いちょうちんが目印だった。

 

ラーメンは醬油、味噌、塩バターがあった。カウンターにはすりおろしたニンニクを入れた容器が置いてあり、好きなだけ入れられた。また「満州餃子」もスタミナ満点だった。ニンニクを入れすぎると翌日には必ず胃が痛くなった。

 

「満北亭」に行くのは、大抵は寮での麻雀がお開きになる土曜の深夜、寒い夜ほど食べたくなった。ここでつけたスタミナを果たして何に使っていたのやら ……。