「昇魂」(“Going to Heaven”) | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

あの日からもう31年になる。時の流れは恐ろしく早い。その日は今日よりも蒸し暑い木曜日だった。

 

当時私は東京のある会社の情報システム部門に勤務していた。情報処理センターは郊外にあり、コンピュータは24時間稼働していたので通勤は車で残業も多く、深夜に及ぶことも月に何度かあった。

 

毎週木曜日には夜間に重要なジョブがスケジュールされていた。このジョブは私の担当でシステムの開発支援を目的としたものだったがトラブルが頻発していた。

 

その日も帰りが遅くなるのは見えていたので19時くらいに同僚と近くのファミレスに夕食に出た。腹が減っては仕事にならない。

 

食事中、同じく腹ごしらえに来た関連会社の人から私の部門の部長代理が出張で乗った飛行機が墜落したらしい、と聞いた。なんとキャンセル待ちで搭乗したという。

 

早めに寮に帰ると大惨事を報じるテレビに目が釘付けになった。部長代理の殉職が明らかになったのは翌朝のことだった。結局遺体は破片程しか見つからなかったと後に聞いた。

 

月内には社葬が営まれたと記憶している。私の部門の多くの社員が葬儀に参列した。私は業務が捌けず参列できなかった。

 

入社3年目の平社員の私が部長代理と直接言葉を交わしたことは無かったが、穏やかで優しい人だという噂は耳にしていた。

 

以後、国内出張では可能な限り新幹線を使うように、という通達が本社から発せられた。

 

・・・・

 

この1985年は私にとっては非常に印象深い一年となった。仕事上、最も追い詰められた年であり体重は40kg台まで落ちた。

 

日航機の墜落事故の他にも、秋には阪神タイガースの優勝に阪神ファンが浮かれ、一方でプラザ合意による円高や株価の上昇で日本も浮かれ、バブル・エコノミーへ道のりを着実に辿り始めた年でもあった。

 

この年、夏休みがとれたのか否か、またとれたとして何処でどう過ごしたかについては全く記憶が無く、当時自分がいかにメリハリの無い生活をしていたかを伺い知ることができる。気持ちだけはいつも焦っていたのだが、行動が伴っていなかった。

まあ、当時それが解っていたなら、ある意味今の自分も無いだろう。改めて、ここに犠牲者の方のご冥福をお祈りしたい。