「擬挽歌詩」 陶淵明 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

今週から街に制服を着た高校生の姿が目立つようになった。夏休み後半の補習が始まったのだろう。夏休みももう終わりである。来週はもう9月か・・・。


先日書いた「挽歌」に関する漢詩を見つけたので紹介する。


「陶淵明」という詩人は晩年自分のための挽歌(自分の死を悼む歌)を作ったらしい。近年生前に葬儀を行うということを聞いたことがあるが、はるか昔にそんなことを考えた人もいたのだ。


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「擬挽歌詩 其一」    陶淵明


有生必有死        生有れば必ず死有り

早終非命促        早く終はるも命の促まれるに非ず

昨暮同爲人        昨暮は同じく人為りしに

今旦在鬼録        今旦は鬼録に在り

魂氣散何之        魂氣散じて何くにか之(ゆ)く

枯形寄空木        枯形を空木に寄す

嬌兒索父啼        嬌兒は父を索(もと)めて啼き

良友撫我哭        良友は我を撫して哭(こく)す

得失不復知        得失 復た知らず

是非安能覺        是非 安(いずく)んぞ能く覺(さと)らんや

千秋萬歳後        千秋萬歳の後

誰知榮與辱        誰ぞ榮辱を知らんや

但恨在世時        但だ恨むらくは世に在りし時

飮酒不得足        酒を飮むこと足るを得ざりしを


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(現代語訳)

命あるものは必ず死ぬ。たとえ人より早く死んだとしても、それは命に急き立てられたわけではなく寿命によるものである。

だから昨晩は同じように生きていた人が、今朝には死んで鬼籍に入っていることもある。

魂は一体何処へ行ってしまうのだろうか?亡骸だけが枯れ木のように残るだけである。

子どもたちは父親(私)を探して泣き、友人たちは私の亡骸を撫でて大声で嘆いている。

果たして私が生きてきたことに利得や損失はあったのだろうか?よく解らない。ましてや私が生きてきた意味などあったのか?それはなおのこと解らない。

千年、万年と時が過ぎた後に、私の栄誉や恥辱など誰が知るだろうか、誰も知りはしない。

唯一つ心残りなのは、生きているうちに「もうこれで十分!」というほどに酒を飲みたかったことである。


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「擬挽歌詩」はこの後「其二」「其三」と続くが今回は割愛させていただく。相当酒が好きだった人だと思うが、この詩に流れる哲学は卓越した境地のようなものを感じさせてくれるのである。


流離の翻訳者 果てしない旅路はどこまでも-elegy