その10(№6194.)から続く

昭和60(1985)年。
東横線から撤退してから5年後。
この年、5000系列は大井町線からも撤退します。昭和45(1970)年に田園都市線に転属してから15年、5200系の転属からでも21年を経過した年でした。

【大井町線からの撤退】
この年までに、東横線に8090系8連10本が投入されるなど、東横線の車両大型化・冷房化が進められ、東横線では日比谷線直通運用を除き、急行・各停とも20m車の8連に統一されています。
そこから押し出された18m車の7000・7200系が大井町線へ転属したため、遂に大井町線の5000・5200系は、全て3月末日限りで運用を終了しました。5200系はデハ5117と、さらにサハ5251を抜き、5201-5211-5202というオールMの3連を組んで目蒲線に転属しています。
これによって5000系に廃車が出たのは勿論ですが、何よりもショッキングだったのは、先頭車デハ5000すらも、どこにも譲渡されないまま退役即廃車になる車が出現したこと。
勿論、このとき運用を離脱し退役した車の中から、長電や熊本電鉄など地方鉄道へ移籍した車もありますし(長電への移籍はこの年に行われたのが最後)、一部のデハ5100のように部品取り用として移籍した車もあるにはありますが、もはや先頭電動車ですら引き取り手がなくなりつつあるという、厳しい現実を思い知らされる出来事でした。これまでのデハ5000は、廃車とはいえ東急での籍がなくなっただけで、地方私鉄に移籍しそこでの第二の活躍の場が保証されていたものですが、今回はそれすらない車が出た。このことは、5000系列が東急の路線上から姿を消すのが時間の問題であることを示す事実ともいえました。
この年、どこにも譲渡されないまま退役即廃車になったデハ5000は、5007~5010の4両。これらは5007・5008が同年11月10日付、5009・5010が同年12月9日付で、それぞれ廃車となっています。
大井町線からの「青ガエル」一族の撤退に伴い、昭和60(1985)年4月1日以降、東急の路線上で5000系列の定期運用が残る路線は、目蒲線のみになりました。
余談ですが、大井町線からの撤退により、日曜祭日を中心に時折見られた、5000系の5連がこどもの国線を走る姿も見られなくなりました。こどもの国線が通勤線化される以前は、多客期には大井町線用の5連が車種を問わず助っ人として入線しており、5000系も例外ではありませんでした。

【最後の砦・目蒲線からも撤退】
昭和60年3月末日限りで大井町線を追われた5000系列ですが、目蒲線からも追われるようになります。
この年の5月、大井町線から3連に組成された7200系が転属し始め、翌年5月までに6編成18両が転属しました。
さらに翌昭和61(1986)年には、新時代の到来を告げるVVVFインバーター制御のフルモデルチェンジ車9000系がデビュー、東横線に8連1本が投入され、同年3月8日から営業運転に投入されています。こんな車が出てきてしまっては、「青ガエル」一族の居場所は、もはや東急にはないと言っても過言ではありません。
結局、昭和61年度首(同年4月1日)現在で定期運用に就いている「青ガエル」一族は、5000系が3連2本(5047-5354-5050、5055-5362-5034。いずれもMcTMc)、5200系が3連1本(5201-5211-5202。McMMcの全電動車組成)。僅か3編成9両のみにまで減少し、編成数はおろか両数すら2桁を割り込んでしまいました。他に休車中のMcTMcの編成が6本、McMcの2連が1本、計20両が残存していましたが、これらの車はもはや、東急での活躍の機会は閉ざされたと評してよいものでした。
果たして、昭和61年6月18日限りで、5000系列は目蒲線での営業運転を終了しました。ということは、同時に「5000系列の東急の路線上での営業運転が終了した」ということでもあります。
6月18日の最終日を前に、同年6月7日からはデハ5047の前面に「さようなら5000形 1954-1986 ごくろうさまでした」と記した惜別ヘッドマークがつけられ、有終の美を飾ることとなりました。
最終日当日は、当時のダイヤでは朝のみ運転する「19運行」に充当されました。小雨の降る中、車庫のある奥沢を0723に出庫、田園調布折返し1往復→蒲田折返し1往復の運用をこなした後、0925に奥沢に帰投。

昭和61年6月18日、午前9時25分。

このときをもって、5000系列の東急における営業運転が全て終了しました。
このときの目蒲線には、7200系が投入されつつあったものの、戦前型のデハ3450も数を減らしつつもしぶとく生き残っており、デハ3500に至っては22両全車が健在でした。また、当時は池上線で活躍していましたが、デハ3650も6両全車が健在。つまり「青ガエル」一族は、これら戦前型よりも早く東急の路線上から姿を消したわけです。もっともこれら戦前型も、「青ガエル」が東急から撤退したその3年後には全て退役していますから、僅か3年のタイムラグしかないのですが、そのタイムラグをどう見るかは、色々な要因があるように思われます。
この年廃車になった車の中から、上田交通や松本電鉄(社名はいずれも当時)に移籍するものが出た他は、全て「退役即廃車」となりました。5200系も先頭車2両が上田交通に譲渡、中間車のデハ5211は部品取り用として先頭車2両とともに上田入りし、もう1両のサハ5251はそのまま東急で廃車解体されています。

【最後の1両の車籍抹消~東急の路線上からの完全消滅】
その後もデハ5116のみが、どういうわけか車籍のみ残った状態で東急に残存していましたが、それも長続きするはずもなく、昭和62(1987)年11月6日付で廃車されました。
5116の廃車によって「青ガエル」一族、5000系列は東急の路線上から名実ともに姿を消したことになります。
この15年後、平成14(2002)年に同じ「5000系」を名乗る車が東急の路線上に姿を現しますが、正面のやや下膨れにも見える愛嬌ある顔立ちや、僅かに内側に傾いた側面などに、「青ガエル」のDNAを見て取ることができます。

地方に転じた5000系列も、1990年代に入ると、置き換えの対象となる動きが出始めます。
次回は、地方に転じた5000系列も退役を余儀なくされる流れを取り上げます。

その12(№6204.)に続く