その9(№6188.)から続く

昭和52(1977)年の長電への移籍から始まった、「青ガエル」一族の勢力の縮小。
今回と次回は、その過程を見ていきます。いよいよ寂しくなっていきますが、よろしくお付き合いのほどを。

【東横線からの撤退】
長電への移籍が始まる1年前の昭和51(1976)年。
この年、田園都市線での5連での運転が始まったことは以前に言及していますが、東横線では6連が7本残存していました。内訳はMcMTMc+McTcが1本、McTMc+McTMcが2本、McMMc+McTMcが1本、McMTMTMcの貫通編成が3本、他に休車のTが2両。このころは各停運用だけになってしまいました。少数派のクハ5150を組み込んだ編成も、東横線では1本を残すのみとなっています。
この翌年から翌々年にかけて、「青ガエル」のうち実に17両が長電へ移籍しています。特にクハ5150は昭和53(1978)年までに全車が長電へ移籍、東横線からも特徴ある風貌のクハが消滅しました。その間に東横線に投入されたのは8500系。8500系は8000系を新玉川線・田園都市線仕様に設計変更したものですが、このころから東横線にも配属されるようになりました(8617F以降)。その後は予備車も東横線と田園都市線で共通化されていたのか、平成の初めころまでの10年余りの間、8500系は入れ代わり立ち代わり東横線に顔を出すようになります。
8500系の増殖と入れ替わるように「青ガエル」は勢力を縮小していくのですが、昭和54(1979)年8月12日、田園都市線の運転系統の変更(従来は大井町-二子玉川園-長津田以遠の運転だったものが、長津田方面からの列車は一部を除いて新玉川線渋谷方面との直通運転に変更され、大井町-二子玉川園間は『大井町線』という独立の路線名称になった)が実施されたことで、東横線の5000系はさらなる勢力の縮小を余儀なくされます。このとき、東横線と田園都市線(運転系統変更後の大井町線)との間で大規模な車両のやり取りがあり、田園都市線で稼働していた6000・7000・7200系の各系列が大挙トレードされてきたため、「青ガエル」の居場所がなくなったことによります。
この時点で、東横線の5000系は6連が2本のみ。いよいよ先が見えた状態になりました。しかもそのうち1本は、5200系の4連の横浜方に5000系の2連をつないだもの(McMTMc+McMc。下線が5200系)。つまり、5000系のみの「清一色」編成は1本のみにまで縮小してしまったわけで、それも貫通編成ではないMcMTMc+McMcの併結編成。これでは「青ガエル」一族の東横線からの撤退も、もはや時間の問題といえました。
昭和55(1980)年からは、8500系編成に新造中間車を組み込んで、もともと組み込まれていた8000系の先頭車を摘出し、これらと新造した8000系中間車で編成を組ませて東横線に配属されるようになりました。この第一陣が8033F・8035Fの5連2本だったのですが、この5連2本こそが、まさしく「青ガエル」と「湯たんぽ」を東横線から放逐した編成でもありました。
この2編成が就役するのと入れ代わりに、5000系は同年3月29日の最終運用を最後に、発祥の路線である東横線から撤退することとなりました。それに先立つ同年3月16日には、5025-5106-5048+5047-5117-5026というオールM編成の6連が「東横線5000形さようなら運転会」なるヘッドマークを掲げてイベント走行を行い、最後の花道を飾っています。
結局、5000系は昭和29(1954)年の登場から四半世紀余となる26年で、発祥の路線である東横線を去ることになりました。5000系の撤退により、東横線所属車両は全車両ステンレス車に統一されています。5200系は大井町線へ転属、以前中間に組み込んでいたデハ5117を再度組み込んで5連化されています。

【目蒲線での活躍】
東横線からは撤退した5000系ですが、同じ年、新たに一部の車が目蒲線へ配属されました。
目蒲線での5000系の運用自体は、昭和45(1970)年に目黒-田園調布間での折返し限定運用がありましたが、あくまで臨時的なもの。また5200系も4連時代、やはり目黒-田園調布間の折返し運用に就いたことがありますが、こちらは田園都市線運用の間合い。いずれにしても、本格的な運用ではありませんでした。
本格的な5000系の目蒲線での運用は、東横線から撤退して半月強が経過した昭和55(1980)年4月15日。東横線からの撤退と目蒲線での運用開始との間にタイムラグがあるのは、配属先となる奥沢検車区の対応工事が必要だったため。これは、同系の車体長が18.5mと長いことから、検車区の検修ピット延長などの改良を施したものです。その上で、目蒲線で3連2本が運用を開始しました。編成構成はいずれもMcTMc。これは言うまでもなく、5000系の登場当時の編成構成。5000系は、東急の発祥の路線を、登場当時と同じ編成で走ることになりました。
目蒲線での5000系は、最終的に3連9本にまで増加します。

【遂に始まった廃車解体】
「青ガエル」登場30周年を前にした昭和57(1982)年。
この年、「青ガエル」一族に遂に、他のどこにも譲渡されないまま廃車解体される車、つまり「退役即廃車」になった車が出現しました。
その「退役即廃車第一号」は、中間電動車デハ5103。この車は、この年の6月17日付で、廃車解体処分となっています。この年はさらに、サハ5373・5374の2両が12月2日付で廃車解体処分となり、「青ガエル」の退潮傾向が強まったことを示す出来事となりました。
翌昭和58(1983)年には、5111(05/18)、5102(06/15)、5107(07/08)、5113(07/14)、5108(07/20)と、デハ5100形ばかり5両が廃車されています。

【5000系登場30年~その光と影】
そして迎えた「青ガエル」登場30周年のメモリアルイヤーである昭和59(1984)年。
この年の10月14日の鉄道記念日(現鉄道の日)、5000系登場30周年を寿ぎ「走る電車教室」臨時列車が運転されました。登場当時を思わせる、5003-5352-5004の3連が東横線を快走しています。
しかし、このような晴れがましい舞台こそ用意されたものの、もはや「青ガエル」一族の退潮傾向が止まることはありませんでした。
この年までに、長電はじめ地方私鉄に移籍した「青ガエル」一族は実に42両に達し(部品取り用として移籍した車を除く)、東急で稼働する車は57両にまで減少しました。「青ガエル」一族の総数は109両(5200系4両含む)ですから、半分近くにまで勢力を縮小したことになります。さらにこの年はデハ5100及びサハ5350が各1両(5119・5366)、それぞれ廃車解体処分となっています(いずれも同年5月17日付)。
編成数で見ても、大井町線では5連×5本(McTMTMcが1本、McTMMMcが4本)と5200系5連×1本(McMTMMc)、目蒲線では3連×9本(いずれもMcTMc)と、特に大井町線での勢力縮小が顕著になりました。

そして迎えた昭和60(1985)年。
この年、5000系は遂に大井町線からも撤退し、東急の路線上から消滅するカウントダウンモードに突入します。

その11(№6197.)に続く