その5(№5632.)から続く

今回は1972年札幌冬季五輪にまつわる、札幌圏の鉄道の変化を取り上げます。

札幌冬季五輪は、実は1940年東京夏季五輪とセットでの開催が決定していましたが、当時の東京夏季五輪の開催権が返上された際、同時に返上されてしまいました。
その後、1964年東京五輪の開催が決定されたことを受けて、札幌に冬季五輪を招致しようという機運が盛り上がります。当初は1968年冬季五輪の招致を目論んだものの投票で敗退、その次の1972年開催に立候補した際、今度は招致に成功しました。これが1966年のことです。
この冬季五輪招致決定を受けて、札幌市議会は翌1967年、地下鉄の建設を決定します。ただし、当時は札幌市の人口が100万人に達しておらず、そのような規模の都市に地下鉄を建設するのは、過剰投資ではないかという懸念も向けられました。しかし、市内の公共交通を担ってきた市電では限界があったのも事実で、五輪招致決定という時期をつかんで、実にうまいタイミングで地下鉄建設を決定したものだと思います。
以下、地下鉄の整備と、それに伴う他の事業者の路線の改廃を取り上げます。

【地下鉄の建設】
最初に建設が開始されたのは、現在の札幌市営地下鉄南北線の北24条-真駒内間です。この区間は国鉄(当時)札幌駅、札幌の中心地大通、さらに札幌最大の繁華街であるススキノ(薄野)を通り、真駒内に至るものです。真駒内地区には冬季五輪のメイン会場と選手村が設けられ、反対側終点の北24条にはフィギュアスケートの競技会場がありましたので、まさに地下鉄南北線は、観客輸送に大活躍することになります。
南北線の特徴は、地上区間をシェルターで覆い、雪をシャットアウトしていること。これは札幌市営地下鉄がゴムタイヤ式走行システムを採用していることが理由のひとつで、除雪も大変で走行に難儀するのであれば、そのまま高架橋ごと覆ってしまえ、ということでこうなりました。当初、ゴムタイヤ式走行システムを検討した際には、車両のタイヤにチェーンを装着することも真剣に検討されたそうですが、そうなっていたら保守点検が大変なことになっていたと思われるので、当時の札幌市交通局の判断は正しかったのだと思います。
ちなみに、最初に投入されたのは2連の1000形、4連の2000形で、朝夕は2連を2本つないで運用し、日中は2連で運用することも考えられていたようですが、その計画は早々に放棄され、終日4連で運転されることになりました。何だか開業当初の東急田園都市線みたいですが、やはり札幌市民にとっても、道路渋滞や雪の影響を受けない、定時性に優れた地下鉄は魅力的だったようです。
南北線はその後麻生まで達し、さらに昭和51(1976)年には東西線、昭和63(1988)年には東豊線がそれぞれ開業し、現在の地下鉄ネットワークが出来上がりました。

【定山渓鉄道】
五輪開催前に廃止された路線がこれ。千歳線の東札幌駅と定山渓温泉の玄関口である定山渓駅との間を、真駒内(ただし札幌市営地下鉄の同名の駅とは異なる場所にあった)を経由して結んでいた路線で、直流電化されていました。にもかかわらず、国鉄札幌駅乗り入れを目指し、当時非電化だった国鉄線へ乗り入れるべく、自前で気動車を導入するなど、前向きな施策を続けてきました。ただし、東急初代7000系に瓜二つの車体を持つ2000形は、非冷房でありながら固定窓という鬼畜な仕様のため、夏季に暑さにやられて嘔吐する乗客が続出、「ゲ〇電」などというありがたくない異名を頂戴した車両もありましたが。
ところで、真駒内は前述したとおり、メインスタジアムと選手村が置かれた場所。それなら、世が世ならば、定山渓鉄道が札幌冬季五輪の観客輸送に大活躍…となる世界線も考えられるのですが、史実はそうなりませんでした。言うまでもなく、定山渓鉄道は五輪開催前の1969年に、廃止の憂き目に遭っているからです。
さて次に、それでは何故定山渓鉄道が廃止になったのかといえば、昭和38(1963)年に収益の多くを占めていた貨物(鉱石)輸送がトラックに切り替えられ、収益の柱を失ってしまったこと。そして事実上とどめを刺したのが、国道36号線との立体交差の問題。御多分に漏れず、札幌圏でも自動車の交通量の増加は顕著となっており、幹線道路である国道36号線の踏切が、渋滞の原因として問題視されるようになりました。当時の北海道警が、「定山渓鉄道線と国道36号線を立体交差化せよ。できなければ廃止せよ」と、事実上の廃止勧告を定山渓鉄道に突きつけました。流石にこれは、当時の運輸省や北海道からやり過ぎだと顰蹙を買ったようですが、結局1969年11月に定山渓鉄道は廃止、路線跡地は札幌市に売却されました。現在の地下鉄南北線の南平岸-真駒内間の地上区間は、定山渓鉄道の廃線跡の上に建設されたものです。当初は真駒内以遠にも延伸計画があり、定山渓鉄道の廃線跡が活用されるはずだったのですが、その計画もいつの間にか沙汰止みになったようです。
ちなみに、鉄道線を廃止した定山渓鉄道は、社名を「じょうてつ」と改めバス会社に転身、現在でも北海道における東急グループの中核企業となっています(定山渓鉄道は東急グループの傘下に入っていた)。

【国鉄千歳線の改良】
五輪に間に合わなかった(間に合わなくてよかった?)のがこれ。
国鉄千歳線は、北広島-苗穂間を旧ルートで運行していました。旧ルートは急カーブが多かったのですが、函館本線との合流点では、札幌駅方面にも岩見沢・旭川方面にも進める、三角線の構造となっていました。これは貨物列車のターミナルとして設けられた新札幌駅(現在の新札幌駅とは別物)が誕生したためで、方向転換の手間を省き運行を円滑化するためでした。
そして旧ルート上には東札幌・月寒の両駅があり、前者は前述した定山渓鉄道との乗換駅、後者は月寒屋内スケート競技場の最寄駅でした。
改良工事は、「新札幌副都心計画」という都市計画に基づいたもので、同時に急カーブの解消を目論んだものでしたが、工事の完成は五輪には間に合わず、五輪開催から1年半後の1973年9月。このとき千歳線は新線に切り替えられ急カーブは解消、札幌駅方面にのみ接続する形態に改められ、同時に東札幌・月寒の両駅は廃止されました。
しかし五輪に間に合わなかったおかげで、旧路線が観客輸送の一翼を担うことができました。それは、月寒屋内スケート競技場が、五輪のアイスホッケーの会場になったから。もし千歳線の改良工事が五輪に間に合っていたら、月寒屋内スケート競技場への鉄道でのアクセスはかなわなかったことになります。「間に合わなくてよかった?」というのはそういう意味です。

五輪開催後も札幌圏の鉄道の改良は続けられ、1980年には千歳線が電化、その8年後には札幌駅高架化、青函トンネル開通により東京からの直通列車「北斗星」が運転されるようになるなど、目覚ましく変わっていきました。ただし、期待された本州側との電化区間の接続はかないませんでしたが。

次回と次々回は番外編として、次回に国鉄を走った「オリンピア号」、次々回には五輪招致で苦杯を舐めた名古屋と大阪の物語を取り上げます。

その7(№5657.)に続く