その4(№5625.)から続く

毎週火曜更新が遵守できず、誠に申し訳ございません。
今回は東急玉川線と東急バス、それと京王線の地下化を取り上げます。

1964年の東京五輪の際は、バレーボール・バスケットボールなどの競技が駒沢オリンピック公園で開かれることになりましたが、そこで問題となったのが、選手・役員その他関係者・観客の輸送をどのように円滑にこなすかでした。現在なら東急田園都市線がありますので無問題ですが、当時はそんなものはなく、路面電車規格の玉川線があるだけ。また当時「新玉川線」(史実の新玉川線とは別物)の構想はありましたが、こちらは営団地下鉄銀座線(当時)との相互直通運転を前提とし、車両規格も銀座線を前提に考えられていました。しかし、ルートの選定に難航して本格的な工事に着手できないまま、1964年東京五輪の開幕を迎えることになります。

【東急玉川線】
路面電車サイズの輸送力しかなく、パンクが懸念された玉川線でしたが、それでも輸送力増強は実施されました。
1964年、玉川線廃止前としては最後の新型車となる150形が4両導入されています。この車両は、普通鋼製でありながら鉄道線用の7000系(初代)に準じたコルゲートを窓下に配し、屋根上の通風器も7000系と同じ形状のものを採用していて、新車であることのアピールに余念がない車両でした。
しかし、この車両は9年前にデビューした200形に比べ、技術的にはかなり後退した車両で、200形で採用されたカルダン駆動・低床構造は採用されず、従来型車両と同じステップ付きの床に、昔ながらの吊り掛け駆動の主電動機を装備するという車両でした。
このころは、激増する自動車の波に飲み込まれるように、国道246号線の路上を走る玉川線は身動きの取れない状態が続いていて、当時の「路面電車無用論」とも相まって、軌道線である玉川線には、会社としての東急も明るい未来が描きにくく、それ故に手間のかかる車両の投入は躊躇したのかもしれません(200形は保守点検が大変で取り扱いが難しく現場の評判はよくなかったので、玉川線廃止と共に全車退役している)。
事実、1964年東京五輪の5年後、1969年5月10日をもって、玉川線渋谷-二子玉川園(当時)間と砧線二子玉川園(同)-砧本村間が廃止され、残った三軒茶屋-下高井戸間が「世田谷線」となり、現在の形態になっています。
ちなみに、150形は玉川線廃止後も世田谷線に引き継がれ、300形に置き換えられるまで、21世紀まで生き延びました。

【東急バス】
鉄道からは外れますが、同じ東急の運営ということで(当時の東急のバス事業は電鉄直営だった)、ここで言及しておくことにします。
東急としても、「中の人」たちは、路面電車サイズの玉川線では、観客等の輸送が覚束ないであろうことはよく理解していました。
しかし「新玉川線」を建設する暇はない。
そこで、東急は、電車がないならバスで…とばかり、バスによる観客輸送を立案します。具体的には、渋谷・恵比寿から駒沢オリンピック公園への直行の臨時便を運行することにしたのですが、当時の世田谷区内の営業所は淡島・弦巻・瀬田の3か所。その3か所をもってしても、臨時便の運行には足りません。
それなら「4つ目の営業所」を作ってしまえと、開設されたのが駒沢営業所。この営業所は、駒沢公園の北西に位置し、玉川線の駒沢電停の近くにありました。
駒沢営業所が開設されたのは、1964年の10月1日。つまり東京五輪開幕の10日前ということになります。
駒沢営業所に配属されたバスは、渋谷・恵比寿からピストン運転され、観客輸送に大いに貢献しました。当時はまだワンマンバスではなく、車掌が乗務していたため、車掌にもそれなりの人数が集められましたが、観客の中には外国人が多いことを想定してか、駒沢営業所には特に「英会話のできる人」が集められたそうです。
無事観客輸送を完遂した駒沢営業所は、その後一般路線を所管することになりますが、長距離系統や都営バスとの共管系統など、個性豊かな系統が多いのが特徴的でした。もっとも特徴的だったのは、新宿駅西口へ乗り入れる「宿91」を所管していたこと。他にも東京駅八重洲口へ乗り入れる「東82」などを所管していました。また、変わったところではデマンドバス「東急コーチ」の第1号の路線を所管したことでも注目されています。
しかしその後、長距離系統特有の問題が噴出、具体的には定時性確保の困難さと均一運賃故の収益性の悪さが仇になり、最後まで残った長距離系統も分断・共管廃止を余儀なくされます。東京五輪開催から20年後の1984年2月16日、「宿91」「東82」がそれぞれ分断・単独所管となり、前者は大森-新代田間の「森91」、後者は渋谷駅-等々力間の「渋82」となりました。同時に担当も駒沢から大橋に移されています。
これらにより、1984年3月、駒沢営業所は閉鎖となり、20年に満たない短い生涯を閉じました。現在の駒沢営業所バス停は「駒沢公園西口」となっていて、跡地にはマンションが建っています。

【京王線の地下化】
地味ながら重要な変化なのがこれ。
京王線は、戦後新宿駅の西側に張り付く形で、自社の新宿駅を設け、以前の新宿追分ターミナルは放棄されました。
しかし、新宿付近の甲州街道と並行して走る姿は往時のままであり、専用軌道とされてはいるものの、夥しい数の踏切があり、「併用軌道に限りなく近い専用軌道」という有様でした。また同時に、新宿駅から大きくカーブする途中にある、甲州街道の大踏切も問題となりました。
これは道路交通の円滑化もそうですが、甲州街道がマラソンのコースになっていたことも関係があります。かつての箱根駅伝のように、選手が通過する際に電車を止めるわけにもいかず、なおかつ踏切は選手が足を取られたりする危険もあり、そういう意味でもなくしたかった区間だったようです。
そこで京王は、新宿駅と新宿-初台間の地下化を実施、五輪開催の前年の1963年に完成しています。ちなみにこの年は、京王に5000系(初代)がデビューし特急運転を開始、架線電圧を600Vから1500Vに昇圧、それまで路面電車に毛の生えたレベルだった京王が、大きく飛躍した年でもありました。
なお、1964年東京五輪開催から14年後、京王は都心(都営新宿線)直通をにらみ、新宿-笹塚間に新線を建設、あわせて初台・幡ヶ谷両駅を新線に移しました。同時に本線も初台-笹塚間を地下化し、これにより現在の線形が完成しています。ちなみに初代の初台駅はこの時以降使われなくなり、現在でもホームが残っていますが、資材置き場などに使われているようです。

これで1964年東京五輪によって変わった鉄道を見てきましたので、次回は1972年札幌冬季五輪で、札幌圏の鉄道がどのように変わったのかを見ていこうと思います。

その6(№5636.)に続く