その1(№5603.)から続く

丸2日遅れのアップですが、平にご容赦を(平身低頭)


1940年東京五輪が幻に終わったことは、前回述べたとおりですが、それから24年後の1964年、東京五輪が開催されることになります。
日本は1951年の第44次IOC総会で復帰が認められ、翌年開催されたヘルシンキ五輪では終戦後初めて選手を派遣、1936年ベルリン五輪以来となる、16年ぶりの五輪参加となりました。ヘルシンキの前には、1948年にロンドン大会が開催されましたが、これには日本の参加が認められていませんでした。
その後、日本は国力を徐々に回復していきます。朝鮮戦争特需という外的要因もあり、1953年には戦前の工業水準にまで回復、その3年後には経済白書が「もはや戦後ではない」と豪語するまでに至ります。その余勢を駆って五輪の夢よ再び…というわけでもないでしょうが、日本は、再度の五輪招致を図ります。
具体的な経緯は割愛しますが、当初招致を目論んだのは1960年大会、開催都市は東京でした。このときはローマ(イタリア)に敗れましたが、次回の1964年大会の開催権を獲得、これにより1964年東京五輪が開催されることになりました。

1964年東京大会のメインスタジアムは、神宮外苑に建設されることになりました。これは1940年大会の際、建設を計画していながら内務省神社局の強硬な反対で挫折し、世田谷区駒沢地区にメインスタジアムを建設する計画に変更されたものですが、1940年当時とは国家の体制も神社など宗教に対する考え方も変化したためか(現行憲法制定に伴う政教分離原則の導入により国家神道は放棄された)、このときはさしたる反対の声もなく、すんなりと決まったそうです。
勿論、駒沢地区も体育館でバレーボール・バスケットボールなどの競技を行うことになり、有効活用されています。

五輪となれば、世界中から選手や観客がやってきますから、彼らの入国から会場までの移動、あるいは宿泊場所の確保など、課題は山積していました。
鉄道でいえば、五輪開催を機にインフラの整備が飛躍的に進むことになります。それが、今回取り上げる東海道新幹線の開業。その他にも、相次ぐ地下鉄新路線開業、羽田空港と都心を結ぶ東京モノレールの開業、さらに地味ながら重要な変化として、京王線の地下化などもありました。
今回は、東海道新幹線を取り上げます。

東海道新幹線に関しては、当ブログでは7年前に開業50周年を記念して「ひかりました・こだましました半世紀」なるタイトルでの連載記事をアップしたところで(前記リンクをクリックすると予告・目次編のページへ飛びます)、このときに建設の経緯などに言及しておりますので、詳細はそちらに譲ります。ご興味のある方はリンク先をご覧になってみてください。
さて、東海道新幹線の建設の経緯をざっくりと申し上げれば、昭和30年代初頭には東海道本線がパンクするという需要予測が立てられ、そのためには別線区間建設による輸送力増強は不可避という結論に至ります。そこで浮上したのが、戦前の「弾丸列車」計画を発展させた「高速・広軌新線」。どうせ新線をつくるのなら、高速運転可能な、広軌(標準軌)を採用した路線にしようということで基本的なスペックが定められ、最高速度200km/h、東京-大阪間4時間以下を目標に、昭和34(1959)年に建設がスタートします。
その間、名古屋以西のルート変更もありました。当初計画では、三重県四日市市~菰野町付近から鈴鹿山脈を長大トンネルで抜ける計画でしたが、これだと勾配も急になり、長大トンネル掘削には年数がかかって東京五輪には間に合わない、ということで、この当初計画は早々に放棄されました。その後、岐阜県から新幹線駅設置の要望が出されますが、この要望を受けて実現したのが、あの岐阜羽島駅。とかく「政治駅」と揶揄されがちですが、あの駅は関ケ原という豪雪地帯に突っ込む前の前線基地としての役割があり、決して「いらない子」ではありません。
5年間の突貫工事で、東海道新幹線は何とか開業。開業日は1964年の10月1日という、東京五輪の開幕を10日前に控えた日でした。まさしく「滑り込みセーフ」という形容が似合うと思うのは、管理人だけでしょうか。
「滑り込みセーフ」となる要因はもうひとつあって、それは用地買収(線路敷設ではない)の完了が、開業1か月半前だったこと。最後は川崎市内の場所だったそうですが、こういう話を聞くと、まさに「綱渡り」の状態だったことがわかります。
なお、東京側の始発駅は東京駅となりましたが(市ヶ谷駅や品川駅などの案もあった。現在の東海道新幹線東京駅がある八重洲側は、かつて客車の操車場があり、それを潰して新幹線の駅を作った)、大阪側は大阪駅ではなく新大阪駅となりました。これは、山陽方面への延伸を視野に入れ、大阪市の中心部に乗り入れさせないことで、線形を悪くしすぎずに神戸・岡山方面へ延ばせるようにした結果です。勿論、市街地への建設のリスクを避けようという考慮があったことも事実。新横浜駅が現横浜駅から離れているのも同じ理由で、高速運転可能な線形と、建設のしやすさを考慮した結果でした。

開業当初の東海道新幹線のダイヤは、名古屋・京都のみ停車の超特急「ひかり」と各駅停車の「こだま」が毎時1本ずつの「1-1ダイヤ」。しかも編成は、現在の16連よりも4両少ない12連。現在16連のN700系「のぞみ」が最小3分間隔で走る、クレイジーかつ過密なダイヤからは到底考えられない、何とも牧歌的なダイヤです。それでも東海道新幹線の開業当初の「1-1ダイヤ」は、日本の鉄道では初めてとなる(恐らく世界でも初めての)「高速列車のパターンダイヤ」として特筆されます。この「高速列車のパターンダイヤ」こそが、後の在来線の「エル(L)特急」実現、現在につながる特急列車の百花繚乱ぶりにつながっていったといえます。

さて「五輪と鉄道」ということですから、東海道新幹線が東京五輪の観客輸送、あるいは来日外国人の観光客輸送にどれだけ寄与したかを取り上げなければなりませんが、結論から述べると、東京五輪のときは、新幹線ではそれほど乗客が増えなかったそうです。それでも、敗戦により日本国中が焦土になるという大ダメージを負ってから、20年に満たないにもかかわらず、世界的なスポーツ大会の招致・運営に成功し、なおかつ世界一の高速列車の運行を実現させた。このことが、世界が大いに驚いた要因でした。この「世界が大いに驚いた」ことこそが、日本国をして「端倪すべからざる国」である、という認識を諸外国に抱かせたものだと思います。

新幹線が来日外国人観光客を多く運んだのは、実は東京五輪開催の6年後、1970年に大阪の千里丘陵で開催された大阪万博のときのこと。「ひかり」「こだま」が、開業当初の12連から16連に編成が増強されたのもこのころのことです。このころの東海道新幹線は「万博の動くパビリオン」として、諸外国から絶賛されました。

1964東京五輪を機に、東海道新幹線が開業したのが、鉄道の一番大きな変化でしたが、その開催都市の東京都内でも、鉄道網の大きな変革が見られました。次回以降はそれを順次取り上げますが、続いては東京の空の玄関口、羽田空港へのアプローチ路線として開業した、日本初の空港アクセス鉄道を取り上げます。


その3(№5621.)へ続く

 

【おことわり】(令和3年9月25日 02:00)

当記事を09/21付の投稿としました。