今回から全13回(予定)にわたり、わが国における五輪(オリンピック)と鉄道とのかかわりを見ていく連載を開始いたします。よろしくお付き合いのほどを。
なお、当ブログで年月日を記す際には、和暦での表記をメインとし、括弧書きで西暦を併記するという体裁をとっておりますが、当連載における年月日の記載は、西暦のみといたします。
ところで、本来であれば昨年に開催される予定であった「TOKYO2020」こと2020年東京五輪・パラリンピックですが、皆様よくご承知のとおり、所謂コロナ禍のために延期され、今年2021年に開催されました。再延期・中止もかなり強硬に主張されていたようですが、一部を除き無観客という形とはいえ開催され、さしたる混乱も「クラスター」発生もなく、大会としては概ね成功裡に終わったもの、という評価をしてもよいと思っています。
(TOKYO2020開催の是非その他については、コメントをご遠慮願います)

日本における五輪の開催は、周知のとおり1964年東京、1972年札幌冬季、1998年長野冬季、そして今回の「TOKYO2020」と、夏季・冬季がそれぞれ2回ずつの計4回となります。
しかし、それ以外にも…というかそれ以前にも、東京で五輪の開催が決定していたことがありました。
それが、開催されずに幻に終わった「1940年東京五輪」です。

1940年東京五輪については、招致の経緯などはここでは触れませんが、「紀元2600年」(これは和暦でも西暦でもない『皇紀』で、初代となる神武天皇のご即位を1年として、それから2600年経過したということ。なお、今年2021年は皇紀でいうと2681年となる。ちなみに、天皇は現在の陛下で126代目となる)という記念すべき年に記念行事を行いたいということと、それによる国威発揚の意図があったことは、疑う余地がないでしょう。

さて、1940年東京五輪で、鉄道網はどのように変わったか。
結論から申し上げると、1940年東京五輪を目指して建設された新路線もなければ、改良された路線もありません。これには色々な要因が指摘されますが、やはり大きな要因は、会場(メインスタジアム)の建設計画が二転三転し、観客の輸送計画を立てるどころではなかったことでしょう。当初計画では、現在の神宮外苑周辺にメインスタジアムを作る計画があり、これは利便性の高い都心部に作る狙いがあったそうですが、これには内務省(当時は神社関係については内務省神社局の管轄だった)から強硬な反対論が出て、都心部へのメインスタジアム建設が不可能になりました。
そこで代替地が検討され、その結果、現在の世田谷区駒沢にあった駒沢ゴルフ場の跡地を整備し、そこにメインスタジアムを建設する計画が立てられ、実行に移されました。この計画はそのまま、1964年の東京五輪開催準備の際に生かされています。ただし1964年の開催時のメインスタジアムは、駒沢公園ではなく国立競技場となりましたが。
こうした会場整備に関する紆余曲折、あるいは日中戦争の長期化により建設資材がひっ迫しつつあったこと、軍部から開催に懐疑的ないし反対する意見が出たことなどで、開催に否定的な世論が広まってしまいました。
結局、1937年7月15日、東京市は五輪開催を正式に返上しています。こうして、1940年東京五輪は「幻の五輪」となってしまいました。代替開催地となったフィンランド・ヘルシンキも(実はヘルシンキは1940年五輪の開催権を東京と争っていた)、その前年の第二次世界大戦の勃発に伴って五輪どころではなくなり、こちらも開催されませんでした。

このように、幻に終わってしまった東京五輪ですが、観客輸送はどうするつもりだったのでしょうか。
仮に駒沢がメインスタジアムになるとすれば、当時の玉川電気軌道(玉電。後の東急玉川線)又はバスのいずれかしかなく、しかも玉電は路面電車サイズの輸送力しかないため、パンクが懸念されました。それをカバーするためか、渋谷-成城学園前間の鉄道路線が計画されていたようですが、それも建設されないまま、未成線で終わっています。あるいは、東京山手急行電鉄(後の帝都電鉄。現在の京王井の頭線を建設・運営していた)が計画していた「東京大環状線」が完成していれば、この路線は駒沢地区を経由する計画になっていたことから、間違いなくメインスタジアムへのアクセスルートとして活用されたことでしょう。
当時の鉄道で五輪を明確に意識してなされた施策というのは、省線電車(当時の国有鉄道は鉄道省の運営だった)のカラー化。それも実現したわけではなく、あくまで大会協賛のための特別カラー。今でいうなら、マスコットのミライトワ・ソメイティをあしらった都営バスの特別ラッピング車両のようなものです。
特別カラーとはいえ、そこは当時の電車。現在のような明るい、派手なカラーリングは「ご法度」とされていた節があります。これは別に戦前の社会がそういうのを嫌った陰鬱な世界だったからではなく、当時の電車の保守点検の必要からでした。当時の電車のブレーキシステムでは、ブレーキをかけると細かい鉄粉が発生したものですが、その細かい鉄粉が車体に刺さり、そこから錆が発生して車体が汚れることにもなりました。その車体の汚れを目立たないようにするために、焦げ茶・濃緑などといった「ダーク系」の色が採用されていたということです。それを考えると、東京地下鉄道が明るいレモンイエローを車体色に採用したのは画期的でしたが、あれは保守の手間がかかることを承知の上で、地下区間では明るい色の方がいいとして採用された色です。
そのような次第で、あまり派手なカラーリングは憚られたのか、赤茶色1色のA案、窓の下辺で二分して上半分をクリーム色、下半分を海老茶色に塗装するというB案の、2つのカラーリングが登場し、前者は大阪地区、後者は東京地区(山手線・京浜線)に投入されました。現在の基準だといかにも地味ですが、当時は黒に近い茶色一色に塗り込められていましたので、このような色を纏うだけでも、乗客や沿線住民に対してかなりなインパクトがあったことは、想像に難くありません。
結局これらの「色見本電車」も、五輪開催返上と共に元の色に戻され、歴史の1ページに記録されるだけとなりました。

結局、1940年の段階では、仮に東京五輪が開催されたとしても、観客輸送に大混乱を来すことは必定であり、この面を考えればむしろ開催しなくてよかったという意見すらあるようです。
1940年の翌年12月8日、日本は「真珠湾攻撃」により米英に宣戦布告し、太平洋戦争(大東亜戦争)に突入していきます。戦争は5年後の8月15日に終戦を迎えますが、それまでに被った被害は人的・物的含め甚大なものがありました。
そして終戦から19年後、幻に終わった1940年東京五輪から24年後、東京は再び五輪招致に成功します。そしてこのときは、日本の鉄道が劇的に変貌しました。その変貌ぶりを何回かに分けて取り上げていきます。

その2(№5611.)に続く