その6(№5440.)から続く

前回言及したとおり、「60.3」では「新幹線リレー号」の廃止に伴い、新前橋電車区で受け持っていた上野発着の中距離急行のほとんどを特急格上げしてもなお、185-200の所要編成数が4編成余剰となりました。
国鉄当局は、その余剰となった185-200の4編成を田町電車区に移し、懸案だった「踊り子」の車種統一を実現させました。ダイヤ改正前は、修善寺編成を併結しない「踊り子」のうち3往復だけが183-1000で運転されていましたが、「60.3」で183-1000は長野運転所に転属し、「あずさ」の運用に供されることになりました。そこで、ダイヤ改正の前日、「踊り子」に充当された183-1000の先頭車クハ183には、「伊豆から信州へ さようなら」と書かれた装飾が施され、お別れムードを演出しました。今回のダイヤ改正で「踊り子」はE257系に置き換えられることになりますが、こちらはかつて信州の松本を根城に「あずさ」「かいじ」として走っていた車両。今年はこのときから36年経過し、干支が3回りしていますが、まさかその干支が3回りした現在、183-1000とは逆に、信州から伊豆への転属を迎え入れるとは。何となく運命の悪戯のようなものを感じてしまいます。

「60.3」を機に、これまで袂を分かっていた185-0と185-200に、初めて接点が生まれたことになります。
もっとも、田町に転じた185-200の編成構成は、グリーン車の位置こそ編成中央の4号車に移したものの、7連という両数自体には変化はなし。編成替えを行って10連を組むのではないかと思われたのですが、国鉄当局はそこまではしませんでした。これは恐らく、7連2本で10連を組むと4両が余剰になり、正規の付属編成より1両少なくなってしまうからという理由と、編成数が減ってしまうという理由があったものと思われます。
ともあれ、これまで基本編成10連・付属編成5連だった「踊り子」について、基本編成として7連が登場し、これで7・10・12・14・15という5通りの編成を組むことが可能になり、より実態に即した柔軟な運用が可能になると思われました。しかしどういうわけか、今の今まで7連×2の14連は実現しないままです。7連だと伊豆箱根鉄道に乗り入れることができないからかもしれませんが。ちなみに、7連と5連を併結する運用の場合は、基本7連が1~7号車、付属編成は8~12号車とはならず11~15号車とされ、その場合の8・9・10号車は欠番とされました。

以下では、「60.3」以降の、田町の185系で見られた話題のあれこれをピックアップします。

【車号はどこ?】
185-0は、落成当時から白地に緑色の斜めストライプのカラーリングでしたから、その斜めストライプと干渉しない位置、即ち車体横中央部からずれた位置に車号が配されていました。そのため、こちらは全く違和感がなかったのですが、185-200はもともと緑の横ストライプだったことから、通常の車両と同じように車体横中央部に車号が配されていました。それをそのまま、車号の位置を変えずに185-0と同じ斜めストライプに塗り替えたものですから、車号が斜めストライプの中に埋没してしまい、ぱっと見では車号が分かりにくくなってしまいました。
185-200の車号の位置を変えないまま塗り替えたのは、恐らく185系の車号が切り抜き文字で記されていたからだと思われます。あれが通勤型・近郊型車両のような書き文字だったら、185-0と同じ位置に書き直されていたでしょう。
余談ですが、国鉄の車両で車号に切り抜き文字を採用していたのは、117系など一部の例外を除けば、新幹線も含め特急車両ばかり。もし185系が、当初計画どおり急行型「171系」としてデビューしていたら、車号は切り抜き文字ではなく書き文字になっていたでしょう。特急シンボルマークや「JNR」ロゴの貼付も含め、車号への切り抜き文字の採用は、185系の特急型車両としての最低限の「身だしなみ」だったのかもしれません。

【貴賓車クロ157の伴車を引き継ぐ】
伊豆下田には皇室の御用邸があるため、何度となくお召列車やご乗用列車が運転されてきました。そのような列車に多く充当されてきたのが、貴賓車クロ157。形式名が示すとおり、この車両は157系の一員で、昭和35(1960)年の落成以降、同系が「あまぎ」を最後に営業運転から退いた後も、昭和55(1980)年まで同系のMcMユニット2組が伴車を務めていました。
その伴車が157系の老朽化に伴い183-1000に代わるのですが、そうなると、157系と183-1000との車体断面や車高の違いが顕著に目立つようになります。これは157系がもともと準急用であるのに対し(車体断面は153系と同じ)、183-1000は純粋な特急用であるためですが、編成としてのアンバランスさが際立っていました。
183-1000が「60.3」を機に田町を去ったのは前述したとおりですが、そうなるとクロ157には、新たな伴車が必要になります。
そこで、同車の3代目の伴車として抜擢されたのが、ほかならぬ185系。これに合わせ、クロ157はこれまでの国鉄特急カラーから、白ベースに緑帯の、185系と同じようなカラーリングを採用しています。そしてクロ157と185系は車体断面がほとんど変わらないため、183-1000のときのようなアンバランスさはなくなりました。
このように、装いを改めたご乗用編成は、何度となく下田へ運転されました。
しかしその後は、昭和天皇のご体調が優れなくなるとともに運転の機会が減り、昭和天皇崩御後に皇位を継承なされた上皇陛下は、特別扱いを好まれなかったことから、クロ157組込み編成の運転機会は、平成5(1993)年を最後になくなりました。
現在もクロ157は車籍を有し、大井の東京車両センターに大切に保管されているということです。

【横帯の『踊り子』】
田町へ転じた4本の185-200のうち、1本は既に新前橋所属時に斜めストライプに変更されていましたが、残りの3本は横帯のままでした。
そのため、「60.3」からしばらくの間は、新前橋の車と同じ横帯の185系が「踊り子」で走る姿が見られ、異彩を放っていました。修善寺行きの5連の付属編成が併結となる列車の場合、7連が横帯、5連が斜めストライプという、2種類のカラーリングの併結運転となり、これも鉄道趣味界で大いに注目されました。
このような「横帯の踊り子」は、「60.3」の翌年である昭和61(1986)年1月ころまで見られたようですが、その後は全て斜めストライプに変更され、「横帯の踊り子」は見られなくなりました。

これで185系は、全ての「踊り子」と上野駅発着の新特急群の運用を掌握しました。
しかし国鉄は、経営形態の変更、即ち現在につながる分割民営化に向けて動き始めており、翌昭和61(1986)年には、3月3日に小規模なダイヤ改正が実施され、さらに11月1日には、新会社発足をにらんだ大規模なダイヤ改正が実施されました(以下「61.11」)。
この「61.11」では、185系のもうひとつの看板運用が誕生するのですが、次回はそのあたりのお話を。

その8(№5455.)へ続く