その8(№5163.)から続く

今回からデフォルトの更新といたします。
前回は番外編その1として「国鉄~JR以外のグリーン車」を取り上げましたので、今回はその2「グリーン車の変わり種」を取り上げます。予告編では「一般のお客が乗れないグリーン車2題」としていましたが、内容を一部変更いたしますのでご了承ください。

【パーラーカー…の名残】
国鉄の歴史上最も豪華な電車といわれた「パーラーカー」ことクロ151。運転台背後には4人用のゆったりした区分室と、1人掛けのリクライニングシートが展開する開放室とで構成されていました。
しかし東海道新幹線開業に伴って山陽~九州系統に転じたものの、「パーラーカー」は惨憺たる乗車率。特別車両料金を東海道時代の7割引にしてもなお利用が増えなかったことから、国鉄当局は一等車としての運用に見切りをつけ、窓割と扉の位置はそのままに、開放室部分を二等室に改造、クロハ181と改めました。中には窓割と扉の位置まで変え、完全な二等車に作り替えた車両も出現、こちらは長野・新潟地区に転じています。
クロハとして残ったのは、山陽系統で使用が継続された車両ですが、区分室は一等扱いでしたから、グリーン車発足時には区分室もグリーン車扱いとなりました。
しかし、当時は「個室を部屋単位で売る」という発想がなく、そのため見知らぬ人と相席になる事態も少なからず生じていたようです。そのためか、グリーン車発足後も区分室の稼働率は芳しくなく、末期は満足な整備もされずボロボロになっていたという証言もあります。結局、区分室は昭和48(1973)年5月、181系が山陽系統から撤退したことで消えました。
後年、新幹線やJR発足後の「スーパービュー踊り子」などでグリーン個室が出現しましたが、これらは見知らぬ客との相席を防止するため、2人以上の定員であっても必ず部屋単位での発売とされました。もし「パーラーカー」の区分室も部屋単位での発売であれば、案外命脈を保てたのではないかと思いますが、労使関係が悪化していた当時のこと、面倒な切符の発券・発売は駅員に嫌がられ、それがために部屋単位での発売ができなかったのでしょう。部屋単位の縛りがなかった「パーラーカー」区分室現役時代末期ですら、駅員も販売には消極的だったようです。
しかしそれにしては、区分室を備えていたジョイフルトレイン「サロンエクスプレス東京」が多客期に臨時列車に充当された実績があるのですが、あれの指定席の売り方はどうしていたのでしょうか?

【乗ったときから温泉旅館?】
昭和末期、「お座敷列車」が全国を席巻したことがありました。これが大人気となったのは、あたかも乗ったときから旅館の宴会場に入ったような雰囲気でくつろげるから。それならその「お座敷列車」を定期列車に組み込んではどうかと昭和60(1985)年に出現したのが、特急「雷鳥」に連結された「和風車だんらん」ことサロ481-500でした。
この車両は実は、償却年数に達していない食堂車の有効活用という面もありました。同じ年の3月に実施された全国規模のダイヤ改正により、それまで「雷鳥」「しらさぎ」など北陸系統の特急に残っていた食堂車の連結・営業を取り止めましたが、その際、償却年数に達しておらず、車齢の新しい食堂車の有効活用の必要に迫られました。同時に、当時は高速道路の開業や高速バスの台頭により「雷鳥」にも新たなセールスポイントが求められたという理由もあり、それならば芦原・加賀などの温泉宿泊客をターゲットに「お座敷列車」を連結してはどうかという発想から、このような車両が作られました。
車両の構成は、元の休憩室と食事スペースを客室に、厨房部分は機器の大部分を残してカウンターを作り、そこで軽食などを提供するものとされました。そして客室部分は、衝立で仕切った4人定員のセミコンパートメント7組。まさに「乗ったときから温泉旅館」を体現するものです。窓にはブラインドの代わりに障子をはめ込み、車両の窓下には金帯を巻きました。従来「編成美を乱す」という理由で、特急用車両にはグリーン車の淡緑色の帯が巻かれなかったものですが、その原則がこの車両の登場で破られたことになります。そして勿論、グリーン券は4人セットで発売され、よそのお客と相席になることがないように配慮されました。
「和風車だんらん」は「雷鳥」の一部列車に連結され、当初はそれなりに評判を呼びました。
しかし、リピーターの獲得には至らず、稼働率は減少の一途をたどりました。その要因は色々ありますが、最大のものは、客席の仕切りが完全な個室ではなく、衝立だけだったこと。そのため遮音性・静粛性に難があり、十分にくつろげなかったことではないかと思われます。
結局「和風車だんらん」は登場4年後の平成元(1989)年3月までに全車編成から外され、さらに一部が「スーパー雷鳥」用のグリーン車(客席のほか、グリーン車の乗客専用のラウンジを備える)に再改造されました。

【一般客が乗ることのできないグリーン車】
最後は「ロ」の記号を持ちながら、一般客が乗ることができない車両のお話。
1950年代、徐々に戦争による混乱・疲弊が落ち着いてきたころから、国鉄当局は御料車の近代化に着手します。その過程で昭和35(1960)年に登場したのが、貴賓車クロ157。形式名からお分かりのとおり、「日光型」157系の一員ですが、風貌は全く異なり、153系の低運転台車のような、貫通扉を設けた先頭形状になっています。なぜこうなったかというと、短編成での運転を可能にするために運転台を設けたのと、編成中間に組み込んだ際に編成内で乗務員らの行き来ができるように貫通扉を設けたから。これは、主に行幸で使用される御料車とは別に、東京近郊の御用邸など比較的短距離の皇族方のお出かけに対応できるようにしたためです。そのためか、車内の構成は、御料車とほぼ同じであり、車両中央には紋章をつけるスペースも用意されています。
このように、クロ157は、皇族あるいは海外の賓客の利用に最適化された設備であり、一般客の利用を全く想定していません。にもかかわらず、何故「クロ157」という一般車のような形式がついたのかは謎です。一説によるとこの車、「クイ157」になるという話もあったようですが、当時は3等級制から2等級制への移行期で、旧一等を廃止する計画だったため「イ」がなくなることを考慮、そこで「クイ」ではなく「クロ」にしたといわれています。しかし、後年登場したE655系の御乗用車両に形式がないことを考えたら、御料車のように「名無し」にすることもできたはずですが、そうしなかった理由は不明です。
クロ157は伴車を157系から183系、さらに後年185系へと変えており、185系への変更の際、国鉄特急カラーから185系に合わせた白色に改められています。1990年代前半から運転実績はなくなっていますが、現在でも東京総合車両センター(旧大井工場)で保管されています。
今年、全車グリーン車の「サフィール踊り子」E261系がデビューしていますが、管理人は、もしかしたらこの車両は、クロ157の後継、かつE655系の予備編成も兼ねているのではないかと思っています。御用邸は葉山・那須・須崎と3ヶ所ありますが、いずれも直流電化区間に収まっていますし、「サフィール踊り子」1本使用の体制のときであれば、御乗用に転用することも容易だからです。

次回は、グリーン車専属のアテンダントの登場について取り上げます。

その10(№5184.)に続く