その5(№4374.)から続く

 

昭和31(1956)年の登場以来、特急・快特など優等列車に使用され続けてきた600形(Ⅱ・以下省略)。

しかし、昭和50年代も半ばに差し掛かると、加減速性能が1000形(Ⅰ)に劣るという600形の走行性能が災いしてか、快特に充当される機会は少なくなっていました。当時、快特の所要運用数は6でしたが、600形の運用はそのうちの2だけ。また、600形はこのころ、製造後25年以上、冷房化改造からでも10年以上を経過し、老朽化・陳腐化が顕著になっていました。そこで、京急は600形の後継として、新たなフラッグシップとなり得る車両の開発を進めます。

この車両こそが、昭和57(1982)年に登場した2000形です。

 

2000形の登場の背景をズバリ言えば、「車社会に対応し上質なサービスを提供し得る車両が必要とされた」ということです。京急のライバルとしては国鉄横須賀線が挙げられますが、このころになると、国鉄の運賃・料金の度重なる値上げにより運賃面で京急が優位に立ったばかりか、昭和55(1980)年の「SM分離」によって本数が増加した引き換えに、新川崎経由により東京・品川への所要時間が伸びてしまったため、品川(東京)-逗子・横須賀間の輸送では、京急が圧倒的に優位になっていました。

しかしその一方で、三浦半島では昭和52(1977)年、横浜横須賀道路逗子-衣笠間が開通、それまで国道16号しかなかった道路事情にも改善の兆しが見えてきました。国民の所得水準の向上により、多くの家庭に自家用車が普及したことも相まって、今後の競争は対国鉄という鉄道内部のシェア争いではなく、自家用車との争いになる。このことは、京急の幹部も十分に認識していたといえます。

そこで、京急の社内においても、対国鉄横須賀線で圧倒的優位に立つことは当然として、自家用車と比べても魅力的な移動空間を提供したい、そのためのフラッグシップになり得る車両を投入したい、という機運が高まっていきました。

 

2000形は、まさにそのような機運の中登場した車両でした。スペックは以下のとおり。

 

① 前面は非貫通の額縁スタイル(地下鉄乗り入れを考慮しないため)。

② 外板塗色は800形(Ⅱ)同様、ベースを赤として窓周りを白とするツートン。

③ 電動車は3両ユニット式を導入。メカニックは800形(Ⅱ)と同じ界磁チョッパ制御。

④ 京急の車両として、京濱電気鉄道26形以来、71年ぶりに両開き扉を導入。

⑤ 座席配置は固定クロスシートだが、扉間は「集団見合い式」で半数が進行方向に向いて座れる形態、車端部はボックス席。運転台の真後ろだけロングシート。

⑥ 扉部分には折畳み式の補助席を設置。

⑦ 車号は浦賀方から末尾(一の位)が1、品川方が8。十の位が編成番号。百の位は、8連の場合0、4連の場合4。

 

まず①について、それまでの京急の車両は、正面貫通型か非貫通2枚窓かという、おとなしい顔立ちの車両が多かったので、2000形の顔立ちは鉄道趣味界でも驚きをもって受け止められました。しかし実際には、東急車輛(当時)が800形(Ⅱ)の前面形状として提案したものを転用したといわれています。

また②の赤白ツートンは、赤一色に白帯以上に流麗なもので、2000形によく似合っていたと思います。もっとも、その後このカラーリングはクロスシート車の専売特許とされ、これと同じカラーリングだった800形(Ⅱ)が、一般車と同じ赤一緒に白帯に塗り替えられてしまったのは、残念なことでした。

そして何と言っても、乗客の目から見て大きかったのは、客室のクロスシート率が100%に迫ったこと(⑤)。100%でないのは、両先頭車の運転台真後ろの座席がロングシートだからですが、そこを除けばほぼクロスシート。これは先代の600形から大きな進歩を遂げたといえます。ただし、このロングシートも真横から前面展望が得られますので、クロスシート部分とは別の意味での「特等席」となりました。

2000形のクロスシートは、固定クロスシートではあるものの、先代のそれとは全く異なるもの。車端部と車両中央部こそボックス席ですが、扉間は固定席を並べそれが中央部で向かい合う形の「集団見合い型」。これによって、扉間の乗客の半数が進行方向を向いて座ることができるようになり、かつ見知らぬ乗客と向かい合う必要もなくなったため、快適性も格段に向上しました。このような座席配置は、同時期に投入が進められていたフランス国鉄TGVの客室、あるいは同じフランス国鉄のコライユ客車に範をとったものとされています。

実はこのとき、阪急や西鉄のような転換クロスシートを採用してはどうかと、社内でもかなり検討が重ねられたそうですが、可動部のメンテナンスの必要性や重量増加、そして座席定員の減少(転換式にするとシートピッチを拡げる必要があるが、そうすると座席定員が減る)という点から見送られてしまいました。その後に登場した2100形は転換式を採用し、扉間の乗客は進行方向を向いて座れるようになりましたが、手動での転換を不可としてシートピッチを詰め、座席定員を確保しています。

そして鉄道趣味界で驚きをもって見られたのは、2000形が両開き扉を採用したこと(④)。これは、ほぼオールクロスシートにした結果として、乗降性に難が生じることを少しでも改善しようとした結果ですが、それまでの京急の車両は、「乗降性の優劣は扉の数と幅次第で、片開きか両開きかは関係ない。それなら可動部の少ない片開き扉が有利」という社内の理論(提唱者の名を取って『日野原保理論』とも)に基づいて、クロスシート車・一般車問わず片開き扉を採用してきたため、そうではない2000形の登場は大いに驚かれました。もっとも、2000形の3年後に登場した1500形は、一般車として74年ぶりに両開き扉を採用したため、2000形の登場は、京急の両開き扉の採用に先鞭をつけるものとなりました。

また、折り畳み式の補助席の採用は(⑥)、着席定員の増加と乗降性の両立を図ったものです。

2000形が鉄道趣味界の内外に与えたインパクトは大きく、また他社の有料優等列車に比肩し得る快適性などが評価され、2000形は昭和58(1983)年度の鉄道友の会ブルーリボン賞を獲得しています。これは勿論、京急の車両としては初の受賞でした。

 

2000形はまず昭和57(1982)年に試作的要素を持つ1編成がまず導入され、これが1年半走り込んだ結果を反映させた増備車が2年後の5月に2編成落成しました。さらに昭和60(1985)年には8連の増備と共に初めて増結用4連が登場、昭和62(1987)年までに2000形は8連6本、4連6本の72両となっています。

その一方で、600形は昭和59年5月から廃車が始まり、最後に残った通勤快特の運用もその翌年2000形に置き換えられてしまいます。その後の600形は、時折2000形の代走で快特運用に入るほかは、久里浜線内の区間運用のみとなってしまい、終焉間近であることが誰の目にも明らかな状態となりました。

果たして、昭和61(1986)年3月、600形は全車退役することになりました。600形の先輩格だった500形も、4扉化されてローカル輸送に従事してきましたが、600形の後を追うように同じ年の8月退役、これにより京急から吊り掛け駆動の車が全廃されています。

 

2000形の増備により、日中の快特は臨時の代走を除いて同形で統一され、利用者にも「快特はクロスシート車」という印象を植え付けることになりました。まさに京急のフラッグシップにして、イメージリーダーに昇りつめた2000形。

次回は、その2000形を使用して行われることになった、行楽列車以外では京急で初となる、座席定員制列車の話題を取り上げようと思います。

 

その7(№4393.)に続く

 

※ 02/28 一部加筆