今回から全11回の予定で、かつての特急街道・山陽線在来線を偲ぶ「思い出の山陽特急劇場」の記事をアップ致します。
当連載においては、昭和28(1953)年3月の客車特急「かもめ」運転開始から昭和50(1975)年3月の山陽新幹線博多開業までの年代を取り扱うこととし、戦前の特急「富士」「櫻」に関しては割愛させて頂きます。その旨ご了承ください。
山陽本線に特急が帰ってきたのは、昭和28(1953)年のことです。
国鉄での特急列車の復活は、その4年前の昭和24(1949)年、東京-大阪間の特急「へいわ」の運転開始となっています。「へいわ」はその1年後「つばめ」に改称、合わせて兄弟列車として「はと」の運転も開始され、東海道系統の特急は2往復体制となりました。
山陽系統についても、国鉄部内で「山陽特急」として運転が計画・検討されていました。その検討にあたって、実に興味深い話があります。
それは、当時の特急の必需品だった「展望車」のこと。
「つばめ」「はと」には展望車が連結され、優等旅客の人気を集めていましたが、「山陽特急」にも連結が計画されます。
しかし、「つばめ」「はと」の運転に際し、戦前に製造された展望車をレストアして使っていたため、新しい特急の運転開始に際し、新しい展望車を製造しようという機運が盛り上がり始めました。
そこで、国鉄では、南満州鉄道の特急「あじあ」のそれに範を取ったものと思われる、優美な全密閉型の展望車・スイテ30を設計しました。全密閉型の展望車は、外地ではない本土の鉄道では初めてのもの。設計にもかなり力が入っていたようで、スイテ30の設計図は、ビスタドーム付きのものと、全面平床構造のものと、2種類の設計図が起こされています。
しかし実際には、山陽線における1等の需要は少ないと予測され、展望車の連結計画は立ち消えになってしまいます。そのため、スイテ30も設計図だけの「幻の車両」で終わってしまいました。
もっとも、このスイテ30が実際に世に出ていたら、同車は東海道系統の「つばめ」「はと」のいずれかに充当され、山陽特急には古いマイテ39などが回されていたのではないかといわれています。
もし仮に、「山陽特急」に展望車が連結されていたら、山陽筋の優等需要が東海道のそれよりも小さいということで、展望車には閑古鳥が鳴いていたかもしれません。実際に151系を山陽線に転用した際、ご自慢の「パーラーカー」が空気輸送、しかも東海道時代よりも特別席料金を値下げしたにもかかわらず閑古鳥が鳴いていたことがありますので、このときに展望車の不連結を決断した国鉄内部の判断は正しかったということになります。
結局、「山陽特急」は、展望車を不連結とした2・3等特急として計画され、そのため最後部は3等緩急車となりました。これがスハ44に車掌室を取り付けたスハフ43ですが、スハフ43のオリジナルは、この列車のために用意された3両だけです(※)(後にスハ44の改造車が出現)。余談ですが、このとき製造された2両のスハフ43は、大井川鉄道で現在でも現役で残っています。
他の車両は、2等車ではスロ54、3等車では上記スハフ43の他スハ44・スハニ35というスハ44系で固められ、いずれも新車でした。流石に、食堂車だけは新車という訳にはいかず、3軸ボギーの重厚な戦前型食堂車をレストアして充当することになりました。
※=この記述は誤りで、3両のスハフ43は本来は臨時特急用の車両だったとのことです。太田拓也様、ご指摘ありがとうございました。
※=この記述は誤りで、3両のスハフ43は本来は臨時特急用の車両だったとのことです。太田拓也様、ご指摘ありがとうございました。
そして「山陽特急」の列車名は「かもめ」。これは戦前に東京-神戸間で運転されていた各等特急「鷗」の愛称を掘り起こしたものです。
しかし、「かもめ」といえば海鳥。山陽線には意外なほど、海を望んで走る区間は多くありません。せいぜい、須磨付近と尾道付近、宮島口付近、それと柳井付近くらいのもので、あとは山間部ですから、そのような場所を走る特急の愛称として相応しかったのか?という疑問は残ります。恐らく、瀬戸内海沿いに走ることからの連想で「かもめ」なのでしょうけど。
ただこの列車名、客車時代の末期には、それ以外のある理由で「相応しくないのではないか」という疑問が向けられてしまうことになります。
このような次第で、昭和28(1953)年3月15日から、「かもめ」が走り始めます。展望車こそないものの、食堂車以外は当時の新鋭客車を連ねた「かもめ」は、乗客からも好評を博しました。
しかし、ここで問題がひとつ。
スハ44系は、起終点での方向転換を前提とした固定座席であるため、展望車を連結していなくても編成の転換を両端で行う必要がありました。そうでないと、下りは進行方向に向いて座ることができても、その反対では進行方向の逆向きに座ることになるからです。そこで「かもめ」の場合は、京都側・博多側でそれぞれ編成ごと方向転換をしていました。京都側では梅小路地区の三角線を用い、福岡側では今はなき勝田線と勝田線・香椎線連絡線(香椎線酒殿駅~勝田線志免駅)を使っています。
しかし、昭和32(1957)年、福岡側での方向転換が大変だったためか、スハ44系の編成を10系客車による編成に置き換え、方向転換の必要のない編成としました。このときお役御免となったスハ44系は、東海道の不定期特急「さくら」に転用された後、東北の「はつかり」に転用されています。
この置き換えは、乗客から大ブーイングの嵐となりました。確かに10系客車は当時の最新鋭であり、明朗な内装が好評を得ていましたが、スハ44系が一方向向けの固定クロスシートだったのに対し、10系客車は4人掛けボックス席で、特急らしさや居住性という点では、スハ44系には一歩譲るものだったからです。そのためか、「かもめ」の走行区間で海の見える場所が案外少ない事も相まって、「かもめじゃなくて『からす』だ」と揶揄されたそうです。これは「かもめ」が「遜色特急」であることを皮肉ったものなのでは、と思います。
「遜色特急」ぶりは列車番号にも現れており、末期の「かもめ」の列車番号は、201・202という、急行列車と変わらない番号でした。これは、1・2桁を通常とする特急列車では考えられなかったことです。
10系客車による運転は、昭和36(1961)年9月まで続きましたが、この前年に客車だった他の昼行特急、「つばめ」「はと」は151系電車に、「はつかり」がキハ81系気動車に置き換えられたため、「かもめ」は最後の定期昼行客車特急となりました。
そして昭和36(1961)年10月の全国ダイヤ改正で、最後の定期昼行客車特急「かもめ」も遂に、気動車へ置き換えられるときを迎えることとなりました。
それと同時に、全国的に特急網の充実が図られたのですが、山陽系統も例外ではありません。