というわけで迎えた「サン・ロク・トオ」こと昭和36(1961)年10月のダイヤ改正。
この改正では、新型特急気動車キハ80系を使用して、それまで東海道・山陽・九州・東北のみに限られていた特急列車を、四国を除く全国に走らせることになり、全国的な特急ネットワークの構築の嚆矢と評されています。
山陽系統でも、特急は以下のとおりとなりました。

・かもめ 京都-長崎・宮崎(京都-小倉間2編成併結)
・みどり 大阪-博多
・へいわ 大阪-広島
・その他 東京発着の電車特急「富士」1往復を宇野へ延長、同時に大阪-宇野間の「うずしお」を新設。

いよいよ、「山陽特急劇場」も「かもめ」の独演ではなくなり、役者が揃ってきたという感じです。
この改正で、最後の定期客車昼行特急だった「かもめ」は、遂に気動車に置き換えられ、定期昼行特急は全て電車又は気動車での運転となりました。
併せて、「かもめ」は運転区間も変更し、同時に長崎編成と宮崎編成を併結するという運転形態に建て替えられました。ここまで変更されると、同じ名前でも別列車の様相を呈しています。
その他、山陽特急劇場のキャストとして「みどり」と「へいわ」が加わりましたが、「みどり」に関しては、車両の初期故障対策で予備車を確保する必要から、実際の運転開始は同年12月になりました。これは、キハ80系で運転を開始した「はつかり」に車両の不具合が頻発していたことがトラウマになっていて、そのために車両の不具合に対する対策に万全を期したものと思われます。
上記とは別に、山陽本線の電化が進展したことから、岡山・宇野まで、東京からの151系電車特急「富士」が乗り入れてくることになりました。岡山ではなく宇野発着としたのは、いうまでもなく宇高連絡船を介しての四国への連絡のためですが、同時に「富士」の間合い運用として、大阪発着の四国連絡特急「うずしお」が登場しています。
それにしても凄いのは、当時の特急列車の編成。「かもめ」の長崎編成・宮崎編成いずれにも食堂車が組み込まれた「ダブル食堂車」の話題は以前にも取り上げましたが、電車の「富士」「うずしお」は、東海道の「こだま」「つばめ」などと同じ、パーラーカー含め1等車を4両も連結し、しかも食堂車とビュフェを両方つないだ12連。優等車の割合も、今とは比べ物にならない高さです。これもやはり、鉄道が「陸の王者」として君臨していた最後の時代だからなのでしょう。

さらに翌年、昭和37(1962)年6月には、山陽本線の電化は広島まで達します。
これを機に国鉄では、東京発着の特急「つばめ」1往復を広島まで延長、東京-広島間の運転とします。この延長運転と引き換えに、運転開始から1年を待たずして「へいわ」は「つばめ」の延伸区間にスジを譲り、廃止の憂き目に遭っています(車両は北海道へ転用され『おおぞら』などに充てられた)。気動車特急が電化の進展に追われるのは、ある意味で「宿命」ともいえますが、それでも運転期間が1年に満たなかったということで、「へいわ」の短命・薄幸ぶりは特筆すべきものがあります。
ちなみに、これ以後「へいわ(平和)」の愛称はお蔵入りになり、その後半世紀以上、現在に至るまで使用されていません。やはりこの愛称は、国民の間に戦争の記憶が生々しく残っていたからこそ受け入れられたもので、戦後十数年を経過すると、列車の愛称としては固い印象があり、それゆえに使いにくくなったことを示しているのでしょう。
この改正では、特急だけではなく急行の「宮島」も、昼行・夜行各1往復が東京-広島間に設定されました。

広島まで電化区間が延びたことは喜ばしいのですが、問題がひとつ。
それは、当時の151系・153系の主電動機出力では、パワー不足のため瀬野-八本松間の連続勾配(通称『セノハチ』)区間を自走することができず、この区間の走行を電気機関車による補機に頼らざるを得なかったことです。当時はEF61形が補機として活躍しましたが、先頭部が自動連結器の151系は直に機関車と連結出来たのに対し、密着連結器の153系は、そのままでは機関車との連結ができませんでした。そのため、153系編成と機関車との間の控車が用意されましたが(オヤ35)、これが旧型のダブルルーフ客車・スロハフ30を改造したもので、しかも153系と同じ緑+黄かん色のツートンに塗られたため、リベットごつごつの無骨な車体と相まって、強烈な存在感を発揮していたとのことです。
セノハチの補機ですが、151系については昭和40(1965)年以降に主電動機の出力アップの改造を行ったことで、同年以降は不要となっています(同時に形式を181系に改めている)。153系については、151系のような主電動機の出力アップは行われなかったものの、編成減車(12連→10連)によるMT比率の上昇(6M6T→6M4T)によって自走が可能になり、こちらも昭和43(1968)年までに補機が不要になっています。

ちなみに。
冒頭に「サン・ロク・トオ」で「最後の定期昼行客車特急である『かもめ』が置き換えられた」と申しましたが、実は昭和37年の時点では、一般型客車での定期特急はまだ「みずほ」(東京-熊本)が残っていました。しかしこれも、昭和38(1968)年、「あさかぜ」などと同じ20系編成に置き換えられました。この置き換えによって、一般型客車を使用する定期特急列車が消滅しました。
なお、20系に置き換えられた「みずほ」は、付属編成が大分発着となり、翌年の「富士」誕生への布石となります。
このころは、山陽特急劇場のキャストは昼行特急が主で、夜行特急は東京から直通する、前記「みずほ」や「あさかぜ」などに限られていました。

そして昭和39(1964)年、10月にいよいよ東海道新幹線、東京-新大阪間が開業します。同時に山陽本線も下関までの電化が完成し、九州側の電化区間とつながりました。
それに伴って、山陽本線でも本格的に電車特急の運転が開始されることになります。

その3(№3318.)に続く

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