その3(№2768.)から続く

前回述べたとおり、東海道新幹線の工事認可は昭和34(1959)年に出たのですが、それが同年の11月という遅い時期だったため、5年後の東京五輪に間に合わせるには、「時間」という壁が立ちはだかることになりました。
東京-大阪間の所要時間を短くする方針により、ルートもできるだけ直線に近くなるように配慮され、その結果新幹線のキロ数は515.3kmとなり、在来線の営業キロ552.6kmよりも40km近く短くなっています。そのルートのうち、既に戦前の弾丸列車計画の際に買収した用地は95km分、トンネルや橋梁などで用地買収を要しないのが同じく95km分あったので、問題は残りの部分でした。
この区間は、一度は戦前の弾丸列車計画で用地をいったんは確保しながら、その後の戦局の悪化にともなっての計画の頓挫などで、元の所有者に用地を返還するなどしたため、再度用地買収の必要が生じることになり、その買収は困難を極めたといいます。最後に残ったのは川崎市内の土地で、それが完了したのは、何と開業10ヶ月前の昭和39年1月! 東海道新幹線の開業が、時期的にいかに綱渡りだったのか、そのことがよく分かるエピソードです。

ところで、東海道新幹線のルート選定にあたっては、名古屋-京都間を鈴鹿山脈を貫く直線ルートとするかどうかが議論されました。
当初計画では、名古屋から三重県桑名・四日市方面へ向かい、そこから一直線に鈴鹿山脈を貫き、京都駅に達するルートでしたが、これだと鈴鹿山脈を貫くために長大トンネルが必要となり、当時のトンネル掘削技術では東京五輪に間に合わないことが考慮されました。また、このルートだと勾配がきつくなることも懸念材料でした。
そのため、鈴鹿山脈を貫くルートは放棄され、現行の岐阜羽島・米原経由のルートが採用されるのですが、当時の岐阜県知事が県内への駅の設置を要望し、岐阜駅を通るのかどうかが検討されました。
結局、岐阜駅が名古屋駅からそれほど遠くない位置にあることや、岐阜駅に立ち寄った場合ルート的に遠回りになり東京-大阪を早く結ぶという趣旨に矛盾することから、岐阜駅に立ち寄るルートではなく、現行ルートが採用されることになります。
それでは岐阜羽島駅はなぜ設けられたのか。これについて、地元政治家・大野伴睦(敬称略・以下同じ)の関与が言われ、岐阜羽島駅が「政治駅」などと言われたりしますが、これは別に大野が岐阜羽島駅の設置を要望したわけではなく、国鉄が関ヶ原越えの際に雪害が予想されることから、雪落としなど運転上の必要のために設けられたものに過ぎません。ただ、岐阜県内の駅の設置を巡り、岐阜・愛知の両県知事の間でバトルが勃発した際、その仲介役を買って出たことはあります。大野の関与が言われているのは、このあたりの話と混同されているのかもしれません。
また、京都駅も当初は、京都市伏見区~宇治市の中間点あたり(奈良線六地蔵付近?)に計画され、超特急は通過という計画だったのですが、これも鈴鹿山脈越えのルートを前提としていたため難工事が予想されたことや、京都の政財界から猛反発を受けたため、現行ルートに落ち着いた際に在来線京都駅に併設する形態に変更され、あわせて超特急も含めた全列車を停車させることに、計画が変更されました。これは、地元の猛反発に国鉄が全面的に折れたということです。
ともあれ、これで名古屋-京都間は現行ルートに落ち着くのですが、このルートは北陸方面への時間短縮に寄与したものの、関ヶ原の雪には悩まされることになってしまいました。
もし東海道新幹線が当初計画通り鈴鹿山脈を貫くルートだったら…名古屋の次は「新四日市」(三重県菰野町付近?)となり、新四日市-新京都(?)はかなり長い駅間になったことでしょうね。近鉄の名阪ノンストップ特急も、史実以上にダメージが大きかったかもしれません。

電気方式は、仙山線などで交流電化の実用化に目途がついたことから(当時は交流電化方式が高速運転に有利とされていた)、交流25000Vと早い段階で決定していましたが、問題は富士川を境に二分されている周波数でした。富士川以東は50Hz、以西は60Hzとなるのですが、当初は車両を複数周波数に対応させることも検討されたものの、東海道新幹線の場合には50Hzの区間が短いこと、将来山陽方面に延伸した場合50Hzの区間の割合がより小さくなって車両の製造コストが上がることなどが考慮され、地上側で50Hzを60Hzに変換する装置を設置して対応することになりました。

営業開始に先立ち、実車の運転試験などを行う試験線が必要となりました。そこで国鉄は、新横浜-小田原間を先行的に建設し、この区間で各種の試験や乗務員の養成などを実施することになりました。これが「モデル線」と呼ばれる鴨宮-綾瀬間の路線で、鴨宮駅の近くには「東海道新幹線発祥の碑」があります。
モデル線には走行試験のために試作車両1000形が搬入され、2連のA編成(1001+1002)と4連のB編成(1003-1004-1005-1006)が登場しました。2編成が投入されたのは、言うまでもなく高速でのすれ違い試験のためですが、これら両編成は、そういった走行試験だけではなく、実際の営業用車両の仕様を決定するべく、座席の内装を比較検討する材料にも供されていました。そのため、車内には転換クロスシートや固定ボックスシートなど、様々な座席が装備されていました。また、車体の構造も比較検討すべく各種の工法が試行され、特に1004は、車体の剛性を増すためX字型に鋼材を組み合わせる工法を採用していました。そのため、1004の側窓は、六角形の独特な形となっていて、異彩を放っていました。
この1000形、最初は高速走行時の車軸の蛇行動が問題となっていましたが、それも順次克服され、開業1年前の昭和38(1963)年にはB編成が256km/hの高速記録を達成しています。

1000形がモデル線で走行試験を繰り返している間に、建設はどんどん進んでいき、戦前の弾丸列車計画の置き土産だった新丹那トンネルも完成、昭和39(1964)年7月1日にはレール締結式が行われ、東京-新大阪間が遂に1本のレールで結ばれました。同月25日、全線での試運転が開始されています。
この年、営業運転への投入を前提としたC編成6連(1011-1012-1013-1014-1015-1016)が登場、1等車やビュフェ車を組み込んだ車両となりました。この6両は後に、営業用車両(後に0系と呼称)に編入されています。0系については次回以降で詳しく取り上げることにします。
当初はこの6両で1編成を構成し、これで営業運転を行う計画だったようですが、その後12連に改められたため、1等車とビュフェ車を各1両追加した12連が構成されています。開業に先立って用意されたのは、12連×30編成の計360両でした。

かくして、昭和39(1964)年10月1日、東京五輪開会式の9日前、東海道新幹線はめでたく開業しました。
当初は、超特急「ひかり」と各駅停車の特急「こだま」が1時間あたり1本ずつ走る「1-1ダイヤ」であり、現在の3分間隔とは比べものにならない、ささやかな規模でしたが、それでも日本初、世界初の高速鉄道の開業は世界的にも大きな注目を浴びました。特に世界からは、終戦後20年足らずでこれほどの高速鉄道輸送システムを作り上げたことに対し、率直な感嘆と羨望の声が上がったようです。

次回は、新幹線の営業用車両・0系を取り上げます。

-その5に続く-

※ 当記事は05/02付の投稿とします。