その2(№2764.)から続く


今回は前史の最終回として、十河信二と島秀雄、2人の人物を取り上げてみたいと思います。

「新幹線を作った男」として真っ先に挙げられるのは、何と言ってもこの2人ではないでしょうか。10年ほど前、テレビ東京系列で同名のドラマが制作・放映されました(管理人は恥ずかしながら見ていません)。十河信二を三國連太郎、島秀雄を松本幸四郎が演じていたとのこと。
十河は国鉄総裁として、新幹線の計画・建設を政治的な側面から進めていったのに対し、島は国鉄技師長として、技術的な側面から新幹線の計画を具体化していきました。

十河が国鉄総裁に就任したのは、昭和30(1955)年のこと。このとき既に、十河は71歳という高齢でした。この昭和30年といえば、前年の青函連絡船洞爺丸の事故、そしてこの年の宇高連絡船紫雲丸の事故と海難事故が立て続けに発生し、先代の長崎惣之助が引責辞任したのですが、当時総裁のなり手がいませんでした。
十河自身も、当時の年齢を理由に固辞をするのですが、同郷国会議員の三木武吉から「君は赤紙を突きつけられても祖国の難に赴くを躊躇する不忠者か」と説得され、「俺は不忠者にはならん」と言い返し、結局引き受けることになりました。就任時十河は「レールを枕に討ち死にする覚悟だ」と悲壮な決意を語ったのですが、当時のメディアはなぜ今更高齢の十河を総裁に擁立するのか、懐疑的な見方も少なくなかったようです。

十河が就任後手がけたのは、やはり新幹線のこと。
当時の国鉄技師長だった藤井松太郎に、十河が新幹線研究報告を要請したところ「技術も金もないから適当にあしらっておけ」と藤井が答えたことに十河は激怒、藤井を技師長から更迭してしまいます。そして後任に据えたのは、4年前の桜木町事故で引責辞任した島秀雄でした。島秀雄は、戦前期の広軌推進論者だった島安二郎の息子。十河がそこに目をつけたわけでもないのでしょうが、十河は島に対し「一緒にお父さんの敵討ちをしよう」といって、国鉄に復帰させてしまいます。
島の功績は後述するとして、十河は政治的な面で新幹線建設の辣腕を振るいました。

およそ、いかなるプロジェクトにおいても、やはり「先立つもの」がないと、どうしようもありません。巨額の資金を必要とする新幹線であればなおのこと。そこで、十河はまず、その「先立つもの」、つまり建設資金を調達する必要に迫られます。その額は、5年の工期で総額約3000億円という巨額なものでした。
十河は、国会で予算を通させるため、ある「力技」に出ます。最初から3000億円などという総額を示してしまっては、新幹線建設を快く思わない政治家の思惑で新幹線計画が潰されてしまうのではないか。十河は、そのことを何よりも危惧していました。
当時、世界的に見れば「鉄道斜陽論」が大勢を占めていました。「鉄道斜陽論」とは読んで字の如く、鉄道は前時代的な交通機関に成り下がってしまうだろうというものです。そして鉄道に取って代わるのは自動車や航空機であるとされました。
このような「鉄道斜陽論」がある程度当時の政財界に膾炙していたためか、新幹線計画に懐疑的な政治家や官僚も結構いたようです。一般国民の間ですら、「新幹線の建設は、万里の長城や戦艦大和と同じように、『世界の三馬鹿事業』」と揶揄するものもおりました。ですから、十河の危惧は、それなりに理由のあるものではありました。
そこで、十河は、国会で予算を通すべく、昭和34(1959)年に1972億円で国会承認を受け、残りは政治的駆け引きで何とかすることにしました。
他方、十河は当時の大蔵大臣だった佐藤栄作の助言により、世界銀行からの1億ドルの借款を申し入れています。これは、世界銀行からの融資を受けることによって、新幹線建設が世界的プロジェクトと位置づけられ、今後の政権交代などに影響されずに新幹線計画を続行することができる(世界的に新幹線建設を公約しているのだから、国鉄総裁や政府トップが交代しても途中で止めることはできなくなる)という趣旨が込められていたとされています。結果、2億8000万ドルの借款を受けることに成功しています(昭和56(1981)年に完済)。
これで新幹線計画の資金的な裏づけはできたのですが、十河のこのような強引なやり方には反発する者も多かったのも事実です。さらに十河にとって不運だったのは、昭和37(1962)年に三河島事故が発生したことです。十河は三河島事故の事後処理を目的に留任しますが、その他にも新幹線建設のために国鉄の新線建設計画を蹴っていたことなどが政界の不興を買い、結局昭和38(1963)年、十河は2期8年の任期を全うしたものの、3期目の再任は叶わず、国鉄総裁の座を降りることになりました(※)。

※ びんいち様のご指摘に鑑み、本文を訂正しました。(平成26年4月28日午前0時58分)

島秀雄は「湘南電車」80系の生みの親としてあまりに著名ですが、80系電車による長距離の電車列車運転の成功が、その後の151系へとつながっていき、最終的には東海道新幹線の成功につながっていったのも、島の功績といって差し支えないでしょう。
島は、最新の技術やリスクの高い方法をとらず、その時々の信頼性の高い技術を用い、一定の水準の成功を収めるやり方を常道としていました。それがまさに、80系電車で結実しています。
勿論東海道新幹線も、それまでの技術の延長線上にあるもので、別段新奇な方法を用いているわけではありません。
このように、島の技術者としてのポリシーは「信頼性の高い従来の技術を使う」というもので、それはリスクの回避でもありました。このようなポリシーは、高い成功率をもたらすのですが、逆から見ると、革新的な技術の採用には至らず、そのことが技術や車両性能の停滞を生み出してしまったという、功罪の罪の面もあります(陳腐化した気動車のエンジンを使い続けたことなど)。
島は、国鉄の技師長として辣腕を振るい、新幹線計画の実現を技術面で具体化していったのですが、昭和38(1963)年、国鉄を去った十河の後を追い、慰留を振り切って国鉄を辞職します。

現在では十河も島も「東海道新幹線を作った男」という評価がなされ、実際にこの両名の二人三脚で実現したと目されることが多いのですが、昭和39(1964)年の東海道新幹線の出発式には、新幹線開業の大功労者であるはずの十河も島も招待されず、開業の瞬間に立ち会うことはできませんでした。それでも十河は、朝10時からの開業記念式典に前総裁として招待されたのでまだ良かったのですが、島はこちらの招待も受けていません。「新幹線を作った男」にこのような仕打ちはいかなるものかと、当時のメディアが批判的に伝えていますが、開業から半世紀を経た今もなお、国鉄の悪しき官僚主義の顕著な例として取り上げられています。このことを考えると、国鉄が彼らを出発式や記念式典に招待しなかったのは、後々大きな禍根を残してしまったといえますね。

ともあれ、彼らのおかげで現在の東海道新幹線、そしてその他の新幹線があるのは、まぎれもない事実です。彼らの功績は、いくら強調してもし過ぎることはないでしょう。

次回はいよいよ、東海道新幹線開業です。

その4(№2773.)に続く

※ 文中敬称略