その2(№1231.)から続く


昭和25(1950)年、それまでのダーク系の塗色から脱却し、鮮やかな緑とオレンジを身に纏った長編成の電車列車が、東海道線で走り始めた。その電車・80系の成功は各方面に絶大なインパクトを与え、後の151系「こだま」や新幹線0系を生み出す母体ともなった。


…以上が史実ですが、では、もし太平洋戦争が起こらなかったら?

いや、「関東大震災」が起こらなかったら?


管理人は断言します。もし「関東大震災」が起こらなかったら、間違いなく昭和初期に、80系の登場を待つまでもなく、東海道線は「長距離電車王国」を迎えていたであろうと。


鉄道界及び鉄道趣味界の歴史認識では、


昭和20(1945)年の終戦後もなお、電車による長距離列車の運転は、一部の私鉄以外では実現していない。国有鉄道では、依然として機関車牽引の客車列車が幅を利かせていた。それが80系の登場により、本格的な電車による長距離列車が実現し、その後の「電車王国」の礎となった。


というのが一般的な理解ですが、果たして本当にそうなのか。ある電車の存在を知ってから、大きな疑問が湧いてきました。

この連載を始めるにあたり、管理人も様々なところで資料を収集したのですが(うかつなことは書けませんから)、その過程で、ある「幻の長距離用電車」の存在が分かったのです。


その長距離用電車とは、我が日本の電車で初めての本格的な長距離運転を目指した最初の系列、デハ43200系でした。車種は


2等車(付随車) 2ドア・クロスシート
3等車(付随車・電動車) 2ドア・セミクロスシート
その他 郵便荷物と3等客席の合造車など


となっており、3等車の付随車には、我が日本の電車で初となる、トイレと洗面所が装備されていました。

この車両と同時期にデビューした南海鉄道(現南海電鉄)の「電7系」は、付随車がトイレを装備して落成し、実際に運用されていますから、「電7系」の方が「日本初のトイレを装備した電車」ということで認知されています。


では、なぜこのデハ43200系は、認知度が低いのか?


実は、この電車の第一陣が落成した直後、本来の運用に就く前に関東大震災が発生してしまいました。このことが、デハ43200系の運命を大きく変えてしまうことになります。


関東大震災の発生によって、国有鉄道でも車両の多くが被災してしまいました。そこで、デハ43200系は本来の東海道線ではなく、京浜線(現京浜東北線)に回されてしまったのです。京浜線では長距離用の設備、具体的には3等車のクロスシートやトイレ・洗面所などは無用の装備となってしまいます。

デハ43200系は、その後「京浜線仕様」というべき改造後のスペックで増備された車両もあるようですが、もはやデハ43200系という名前ではなく、3扉ロングシートのデハ63100系となって増備が続けられました。クロスシートで落成した車両も、大正15(1926)年から翌昭和2(1927)年にかけてロングシート化・3扉化・トイレ及び洗面所の撤去など、純然たる通勤車仕様に改変され、誕生僅か5年以内で、日本初の長距離電車となるはずだったデハ43200系は、歴史の荒波の中に呑まれていってしまいました。僅かに、2等車だけはクロスシートの内装が好評だったためそのままで残され、後に2等車を増備した際にリピートオーダーがあったのですが、こちらもデハ43200系の一族ではなくなってしまっていました。

その後、昭和4(1929)年から鋼製初の20m大型客車・スハ32系(当時はスハ32600形)が製造されると、一部は電気暖房を装備し「湘南列車」に充当されるようになります。昭和9(1934)年には丹那トンネルが開通し、それまでの「熱海線」国府津-熱海間と結んで東海道本線とし、御殿場まわりのルートは「御殿場線」と改めました。これによって、東京-沼津間は急勾配やトンネルでの煤煙から解放され、快適な旅が堪能できるようになりました。


しかし、東京-沼津間の約130kmが電化された後も、戦前期において電車運転の機運が盛り上がることはありませんでした。

その理由はいろいろありますが、ざっと挙げると以下のとおりなのではないかと思います。


1 国有鉄道としては、関東大震災の復興に資金をつぎ込まざるを得ず、横須賀線用のモハ32系を作ってしまった手前、東海道線用の電車を製造するまでの資金的な余裕がなかったのではないか。

2 昭和初期に我が国が陥った恐慌により、新車の発注その他の設備投資がままならなくなったのではないか。

3 当時軍部は「電化した場合、変電所を攻撃されれば運転不能になる」等の理由で国有鉄道の幹線系線区の電化には反対しており、電車の投入(大規模な設備投資)が憚られたこと。

4 当時の東海道線は客車列車が多く、その客車も沼津以遠へ直通する列車に運用される場合が多く、そのような状況下で電車を投入しても運用効率が悪くなること。

5 4を克服するには東京-沼津間の旅客列車を完全に電車化するしかないが、そうなると沼津以遠へ向かう乗客に乗り換えの不便を強いてしまうこと。


ではなぜモハ32系が優先されたかですが、以前に述べたとおり当時の横須賀線は我が国の国防にとって重要な路線であったことから(あるいは軍部の要望があった?)、電車の投入による運用の効率化はこちらの方が優先されたのではないかと思われます。


そのようなわけで、東海道線は電化によって煤煙から解放されたものの、依然として折り返し駅での「機回し」からは解放されませんでした。


その後、我が日本は戦争へと突入し、昭和20(1945)年には敗戦となるわけですが、敗戦後の復興の段階で、早くも東海道線の電車運転の構想が再燃することになります。しかし、その当時の構想は、後の80系とは全く異なったものでした。


その4(№1244.)へ続く


※ 01/27・12:00、本文一部修正