その3(№1238.)から続く


戦争に突入すると、「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵だ!」などというように、わが日本は国家・国民の持てるエネルギー全てを戦争の遂行のためにつぎ込むようになりました。これは是か非かの問題ではなく、クリミア戦争あたりから銃後の国民を巻き込んだ総力戦になってきたという、国家間の戦争の変質があったからです。

鉄道も当然、そのような動きとは無縁ではありません。既に様々なところで触れている、食堂車や優等車の休廃止などはその典型例といってよいと思います。


国有鉄道の電車についても、京阪神地区や京浜線(京浜東北線)の2等車が休止になっていますが、横須賀線は例外ということなのか、「決戦非常措置」のダイヤ改正が行われた昭和19(1944)年4月まで2等車が残っていました。

横須賀線の例外的な特別扱いは、既にわが日本の劣勢が顕著になった昭和18(1943)年において、横須賀から先、久里浜までの延伸を行ったことからも見て取ることができます。しかし、当時は物資不足が深刻になってきた時代のこと、延伸に必要な線路など、特に貴重な金属類をどうやって調達したのか。そのあたりは疑問に思うところではと思いますが、国有鉄道では、何と御殿場線(国府津-御殿場-沼津)を単線化し、浮いたレールを用いて敷設したという記録が残っているようです。御殿場線はもともとの東海道線だったのですが、昭和9(1934)年に丹那トンネルが開通し、同時に国府津-小田原-熱海間の「熱海線」を新たに東海道線と改めたため、ローカル線に転落していたものです。ローカル線なのだから単線で十分だろう、ということでした。このあたりの経緯は、東武日光線の新栃木以北を単線化し、熊谷線(熊谷-妻沼。当初は西小泉までの延伸が計画されていた)などの建設に転用された経緯と相通ずるものがあります。


「決戦非常措置」も空しく、昭和20(1945)年8月15日、わが日本は終戦を迎えますが、空襲による被害や車両その他のインフラの荒廃(酷使と、運転・整備の熟練技術者の応召による不在)により、鉄道は疲弊していました。しかし、疲弊した鉄道にも乗客が殺到し、現在のラッシュの混雑などを遥かに凌ぐ、殺人的な混雑となっていました。

そこで問題となったのが、客車列車が折り返しのための手間と時間がかかることでした。客車列車の折り返しには、「機回し」と呼ばれる機関車の付け替え作業を要し、そのために時間と要員が必要であるということは、前々回の記事で指摘したとおりです。このころの東海道線・横須賀線は、電車が投入されていたのは横須賀線だけで、東海道線は依然として機関車牽引の客車列車でした。そのため、折り返しに時間と手間がかかるという非効率性が問題となります。そこで、東海道線に対して「機回し」の必要のない列車を走らせる計画、具体的には電車を投入する計画が立ち上げられることになります。

…とここまで読んで来られた方の中には、「それが80系につながったんだろ。もったいぶってないでさっさとその話に持って行けよ」と思われる方もおられるかと思います。

しかし、当時検討された東海道線の電車運転計画は、80系の計画とは明らかに異なるものだったのです。

現在でもそのときの車両の設計図面が残っていますが、その車両は何と、あの「モハ63系」をそのまま3ドアにしたような車両だったのです。63系は、昭和18(1943)年から製造が始まり、終戦直後から大量に製造されラッシュ輸送に貢献した車両で、20m級の車体に4扉ロングシートを備え、換気に有利なように上段と下段を開けられ中断を固定にした3段窓を採用していました。しかもこの車両は、多くが私鉄へも供給され、私鉄での輸送改善にも貢献しています。

そのような車両をそのまま3ドアに改めたような車両ですから、当然内装は3ドアロングシートという、当時の水準では考えられないような内装でした。もっとも、3ドアセミクロスシートの電車としては、既に戦前にモハ51系が登場していますので、国有鉄道当局としては、終戦後の混乱が落ち着き乗車率が安定してきたら、セミクロスシートに改造するつもりでいたようです。


一方、横須賀線は既に戦前において電車運転を行っていましたから、東海道線のような「機回し」の非効率性の問題はありませんでした。しかし、20m2ドアのクハ47やサハ48・優等車のサロ45などがドアの増設改造などを受け、しかも満足な整備も受けられないまま酷使されたため、ボロボロになっていたという有様でした。そのような次第で、やはり横須賀線に対しても、新型車両の導入が検討されました。

ですがそれは、やはり上記の「63系の3ドアバージョン」というべきもので、それが当初「70系」と部内では呼ばれていたようです。その後曲折があり、いく度かの設計変更を経て「横須賀線電車」として知られる70系が世に出たことになります。


…とここで素朴な疑問なんですが、当時「63系の3ドアバージョン」の電車が世に出ていたら、東海道線と横須賀線の車種が共通化されていたのでしょうか? 両路線の車両の共通化は昭和37(1962)年の111系投入から始まっていますが、もし当時この車両が投入されていたら、そうなったに違いありません。

しかし、あくまで結果論ですが、このような車両が世に出なくてよかったと思います。もしこのような車両が投入されていたら、東海道・横須賀両線に大増殖していたはずで、東海道線用の80系や横須賀線用の70系は、ひょっとしたら世に出なかったかもしれません。仮にこの車両の後継車が出るとしたら昭和40年代、1960年代ころになってしまうはずで、そうだとすると80系や70系を経ずに、いきなり153系や111系にジャンプしてしまった可能性だってあります。

ただそうなると、80系が実現させたような電車による長距離運転は、果たして実現していたでしょうか? おそらく、長距離列車では機関車牽引の客車列車がかなり後年まで幅を利かせていたのではないかと思います。あるいは153系という「電車急行」というものが世に出たか、そして151系の登場もかなり後年になってしまったのではないかと思います。つまり、現在までの電車の発展の歴史が、相当スローダウンしてしまったのではないかと思わざるを得ません。

そういった意味で、「63系の3ドアバージョン」が世に出なかったことで、かえって電車の発展が促進されたように思います。


次回は、いよいよわが日本で電車の本格的な長距離運転を実現させた80系について取り上げたいと思います。


その5(№1256.)に続く