その16(№1104.)から続く


東海道新幹線は、昭和39(1964)年の開業以来ビュッフェ車による供食サービスを提供してきました。しかしそのサービスが必ずしも利用客に諸手を挙げて受け入れられたわけではなかったのは、以前の記事 で触れたとおりです。

乗客数そのものは開業以来順調に増加し、昭和45(1970)年の大阪万博を前にしてそれまでの12両が16両編成に増強され、これが現在まで続く「16両・全長400m」の新幹線編成の原型となります。ただし、ビュッフェ車は「ひかり」こそ開業以来の1編成2両だったのに対し、「こだま」は短距離利用が多かったためかビュッフェ車の利用率も芳しくなかったようで、2両だったのを1両に減じ、1両を売店車に置き換える施策がとられています。

そのような体制で、昭和47(1972)年3月の岡山開業を迎えますが、当時既に間をおかず博多までの開業が確実視されており、その際の供食設備としてビュッフェ車では余りにも貧弱なのではないかという危惧は、当時の国鉄の内部にもありました。

そこで、昭和48(1973)年ころから、国鉄は新幹線用の食堂車の設計に着手します。


このときの裏話として、実に興味深いと思える話があります。それは、本格的な食堂車の検討と並行して、ヨーロッパの鉄道で見られたセルフサービス方式の簡易型食堂車(国鉄内部では『軽食堂車』と呼んでいた)の検討が進められていたことです。この「軽食堂車」の検討にあたっては、サービス要員の省力化、販売品目の限定、自動販売機の導入など、かなり先進的なものがあったようです。このような簡易型食堂車は、急行列車に「サロンカー」として連結されていたオシ16形の設計思想をより発展させたものといえそうですが、もしこのような食堂車が実現していれば、在来線の壊滅的な食堂車営業列車の減少を少しは食い止められたかもしれない。管理人はそう思います。

しかし、結局のところ、新幹線は我が日本を代表する列車であるという意識があったためなのか、新幹線の食堂車も本格的なものとなりました。これが36形として世に出ますが、以下のようなスペックを持っていました。


1 食堂定員は42人(戦前型食堂車と同じ2人+4人のテーブル配置)。
2 食堂スペースの脇に通路を設け、通り抜ける乗客・乗務員と食事する乗客を分離する。
3 食堂車の隣にビュッフェ車を組み込むことにして、厨房機器及び食堂車従業員の共通運用を図り、食堂車営業の効率化を図る。
4 大容量の水タンクを搭載するため、通常のMM’ユニットのような機器の搭載ができず、そのためユニットを組む27形に一部の機器を搭載する(このため、36形は27形以外とユニットを組むことができない)。


食堂のテーブル配置が戦前型食堂車と同じであるとはいえ、車体幅の大きい新幹線電車のこと、側通路を確保してもなお余裕のある大きなテーブルで、国鉄の看板列車らしい威厳に満ちていました。この食堂スペース、車端部(博多寄り)の1区画だけは簡易な衝立で仕切られていて、椅子がソファーのようになっていて、他の席とは一線を画していました。一説によると、この一角は予約席として運用することを考えていた話が伝わっていますが、そのような扱いは、ついぞなされることはありませんでした。管理人は何度か36形食堂車を利用していますが、あの一角に座ったことは一度もありません。

また、7時間に及ぶ長時間運転(長距離運転ではない)となることから、食堂車で使用した水の取り扱いも問題となりました。便所用の水は循環式トイレを採用していましたので、何回か循環させて再利用することができますが、食堂車の水は調理や食器洗浄などに使用するため、衛生上再利用など言語道断(できるのかもしれませんが、当時は技術・コスト両面で無理だったでしょう)。

そこで、停車駅で給排水を行うこととし、地上側で設備が整えられました。それが、下りの岡山駅と上りの名古屋駅に設けられた排水用のピットです。このピットに停車中の列車から排水を行うようにしたもので、食堂車の停車位置(8号車)につくられました。


ともあれ、昭和48(1973)年の末ころから、この新しい食堂車と27形とのユニットが続々と製造され、従来の「ひかり」編成に組み込まれていきました。ほぼ「ひかり」編成に組み込みの完了した昭和49(1974)年5月ころから、本格的な営業を開始しています。


いいことばかりではなく、本格的食堂車・36形の製造に着手した昭和48(1973)年10月から、要員の確保が困難となったために「こだま」のビュッフェ営業が中止され、車内販売によるシートサービスに供食サービスを担わせる体制に転換されました。これは、その後のオイルショックの影響もあり、要員の確保の問題も好転してきたため、昭和49(1974)年ころから、需要の多い列車から順次ビュッフェ営業を復活することになりました。


昭和50(1975)年3月10日、遂に新幹線が九州・博多へ到達しました。東京-博多間の最速列車は、現在より2時間近く余計にかかる6時間56分でした。これは、北九州地区で炭鉱の廃鉱跡を通るルートだったため地盤が安定しておらず、そのために減速を余儀なくされていたのが理由です(その後最速列車は6時間40分に短縮)。


昭和51(1976)年になると、開業当時から活躍してきた車両について、老朽化が著しくなり、置き換えの必要が生じました。しかし、当時の0系は度重なる編成替えを経ていて、同じ編成でも各車の経年がバラバラだったことや、当時新形式車の投入が難しかったこと(この理由は、労働組合が嫌がったことと、新形式車だと予算上の問題があったことの2つ)で、同じ0系を新造して置き換えることになりました。置き換え用の0系は、窓ガラスの破損対策から、それまでの2席1窓の広窓が1席1窓の狭窓に改められ、狭窓がズラズラ並ぶ姿になりました(1000番代)。

それと同時にビュッフェ車も内装が刷新され、食堂車の隣に組み込むことを前提に厨房の装備を簡素化し、かつ椅子を無くして全て立席とした新しいビュッフェ車・37形が設計され、順次古い35形に代わって編成に組み込まれていきました。ビュッフェ車しかなかった「こだま」編成でも、一部の編成は古い35形に代わり、新しい37形に置き換えられています。この37形は、27形と同様に身障者用設備を持っており、現在のバリアフリーの発想を取り入れた車両で、客室の一部の椅子が車椅子用スペースとして空けられています。

37形の特徴は、モノトーンだった35形とは異なり、黄色やオレンジのパステルカラーの内装を備えていることです。これによって一段と近代的かつ明朗な感じになりました。ただし、速度計のデジタル化はこの時点ではなされず、それは昭和57(1982)年に登場した東北・上越新幹線用の237形の登場を待つことになります。


新幹線の食堂車は、営業開始以来概ね好評裡に推移していきました。

しかし、在来線では、新幹線博多開業を境にして、食堂車の退潮傾向が鮮明な形で現れることになります。


その18(№1117.)へ続く