広島カープ 黒田博樹投手日米通算200勝。 | 海悠Blog

海悠Blog

ブログの説明を入力します。

「一番は、本当にホッとしています。いつもファンの人に声援で背中を押されて、本当に心が折れそうな時でもマウンドに行く気持ちを常に持たせてもらって、本当に感謝しています」

2016年7月23日、黒田博樹投手が日米通算200勝達成。真っ赤に染まったマツダスタジアム、多くのファン、チームメートの前で、41歳の右腕が最初に口にしたのは、安堵の言葉、そして感謝の意だった。

「まさかこういう日を迎えられると思っていなかったので、本当にうれしく思っています。自分自身でもあんまり実感がわかないというか、本当にそこまで勝ったのかなという気持ちですし、日本に限らず、アメリカのチームメートとか、数多くのサポートがあってここまで来られたと思っています」

 1975年2月10日生まれ。元南海ホークスの外野手である父・一博、砲丸投げの選手として64年の東京五輪の代表候補にもなった母・靖子から授かった丈夫な身体を武器に、小学2年から野球を始めるとすぐに頭角を現した。しかし、上宮高校では挫折を味わう。厳しい練習とハイレベルな競争の中で結果を残せず、控え投手のまま卒業。黒田が将来プロ野球選手に、ましてやメジャーリーガーになるとは当時、誰も思っていなかった。

 専修大学に進学後、徐々に出番を得て、大学4年時に球速150キロを計測した。逆指名でのドラフト2位で広島入りしたが、当時はそれほど注目されていた選手ではなかった。プロ入り後も壁にぶつかり、1年目の6勝9敗、防御率4.40から、2年目は1勝4敗、防御率6.60と成績が下降。ストレートは確かに速かったが、あまりにも荒削りだった。

だが、不器用ながらも一歩ずつ前へ進み、経験を積む中で少しずつ安定感を身につけた。自慢はタフさ。4年目の2000年にリーグ最多の7完投で9勝(6敗、防御率4.31)を挙げると、翌01年には13完投で自身初の2ケタとなる12勝(8敗、防御率3.03)をマーク。以降、7年間で6度の2ケタ勝利を飾り、カープのエースとして熱投を続けた。

 決してエリート街道を歩んできた訳ではない。座右の銘は『雪に耐えて梅花麗し』。「苦しまずに栄光なし」の考えを胸に、泥と汗にまみれながら自分自身と真摯に向き合ってきた。その姿勢は渡米後も変わらず、それまでのストレートとフォークで三振を奪う“剛”のスタイルから、生き残るためにツーシームを軸にボールを動かして打たせて取る“柔”へと変貌。ドジャースで4年間、ヤンキースで3年間、先発ローテーションとして計79勝(79敗、防御率3.45)をマーク。変化を恐れず、常に前に進んできた証だった。