肉的なものと御霊的なものと(2) | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Pedro Szekely

 

先ほどの投稿を書いた後で思い出しましたが、日本のキリスト教史の中で特異な位置付けを持っている熊本県阿蘇山での聖霊のバプテスマ。太平洋戦争が終わって5年後の1950年。日本が戦後の混乱の中からそろそろ抜け出そうという時代。

 

私が、以下の4名の中のお一方の弟子にあたる方から直接聞いた話に基づくと、イエス・キリストの本当の福音を求めて、東京などからはるばる阿蘇山にまで駆けつけて、聖霊を求めて祈っていた数名の男性達。その男性達に、使徒の働きに記されているペンテコステの日の出来事と全く同じように聖霊が下り、異言が出てきた。

 

小池辰雄氏(ドイツ文学者、詩人、伝道者)
関根正雄氏 (伝道者、聖書学者、新約聖書個人訳など)
丹羽鋹之氏(プロテスタント系キリスト教会創設者、牧師)
手島郁郎氏(キリスト教団体「キリストの幕屋」創始者)

 

その4名は、日本のキリスト教史の文脈では、「全く異なる」と言っても過言ではない道を歩み始めることになるのですが、共通して言えるのはその「伝道」の熱さ。尋常ではないと言えるほどの、イエス・キリストの道への没入。

 

これらの人に下っていた霊は、パウロが書いている「あの霊」(御霊)であり、1世紀半ばのペンテコステの日に風のようなものが吹いてきて、いきなり、全員が異言で語り始めた、その時に下った霊。すなわち、イエス・キリストがヨハネ福音書14章〜17章で預言していた霊。また、使徒の働き冒頭で、「力を受ける」と預言されていた霊。つまり、聖霊。それではないかと、受け止めています。

 

この聖霊が下った時の状況が、小池辰夫氏のものとして

 

「十字架のキリストを瞑想した全身的祈入において、天から直接、聖霊のバプテスマにあずかり、おのずから異言が迸った」。

 

と書かれており、丹羽鋹之氏関連の記述として、

 

「昭和26年6月25日(月)。日曜日の疲労か、午後の婦人会の後で疲労を感じ、夜、皆の就寝後10時45分頃より、一人祈る。切に御霊を求めて祈った。そしてこの時、異言にて祈る体験を与えられる。大きな感動が全身に漲(みなぎ)り圧倒された。止め度なく口をついて出る不思議な言葉と身体の霊動の中に約1時間を過す。聖書に記されている異言を、身を以って経験せしめられて喜びに溢れる。御霊の内在を深く実感した。平安が全身にみなぎり、御霊の御愛がひしひしと身にしみて感ぜられた。かつてより、自らに足らざるものあるを感じ、切に求めて来たものに触れしめられた思いである。今その入口に立たしめられて我が心は望みに踊っている。」

 

と書かれています。

 

これは、イスラエルの神から、御子であるイエスの名によって信徒に遣わされる霊ではなかったかと、考えています。「伝道させる霊」です。