Courtesy of Pedro Szekely
三位一体の教会群にない信仰は、「主イエスを証しするためなら殉教しても良い」と思う信仰です。
初代教会の活動が残っていた1世紀〜2世紀当時、「主=ギリシャ語・キュリオス」という称号は、皇帝にのみ冠せることができる称号でした。
従って、ナザレ出身のイエス(ヘブライ語イェホシュア。意味は YHWH + a cry for help)が「主=ギリシャ語・キュリオス」であると人前で言い表すことは、太平洋戦争中の日本である町の出身者が仮に山田一郎であるとすれば、「山田一郎は天皇です」と言うに等しいことでした。これを官憲が聞きつけたならば即刻牢屋に入れられて、天皇を侮辱する重罪に定めらます。
1世紀〜2世紀、人前で、ナザレのイエスが「主=ギリシャ語・キュリオス」であると言い表すことには、そうした、現代の日本にいると想像もつかないようなリスクがありました。シーザー/カエサルにのみ冠せられる「主=ギリシャ語・キュリオス」という称号を、ナザレ出身のイエスに対して冠せて言う訳ですから、これをローマ軍の兵士が聞きつけたなら、すぐにしょっぴかれて牢屋入りです。場合によっては皇帝を侮辱した罪で処刑されるでしょう。
それだけ、人前で、イエスが「主=ギリシャ語・キュリオス」であると告白することには、命を失う可能性があるほど、重みがあったのです。
キリスト教会で、受洗に先立って、キリスト教会の会堂の中で、信徒が見守る中で「イエスは私の主です」と言い表し、そこに自分の命が失われるようなリスクが一切ない状況で、言い表すのとは、全く異なる、極めて、腹を括って言い表さなければならない、場合によっては「自分は殺されてもよい」と言う覚悟があって言う、「イエスは私のキュリオスです」だったのです。
この信仰は、現代のキリスト教会からは欠落しています。(もっともヒンズー教が支配的であるインドやイスラム教が支配的である国々では、それと同等の命のリスクがあることは承知しています)
従って、以下のようにパウロが書いているのは、そうした、自分が殺されるかも知れない社会的政治的な状況がある中で、称号「キュリオス/主」を、ローマ皇帝ではないナザレのイエスに対して付けて呼ぶ。それも限られた人数がいる隠れた空間で言うのではなく、殉教したステパノのように、正々堂々と皆が取り囲んでいる場で言う。そうした、命を決した信仰告白は、聖霊によるのでなければできない、ということを書いているのです。
ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。
第一コリント12:3
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現代のほとんどのキリスト教会は、三位一体の教義を掲げており、「父と子と聖霊とが三つにして一つ」という3〜4世紀の人間が作った人工的な神を信じていますから、真理の御霊である聖霊は下っていません。本当の聖霊が下ると、人間がどのように劇的に変化するのかを、見たことがありません。まさに使徒の働きに書かれていることが眼前で展開します。
従って、聖霊が「何かを言わせる」ということを経験したことがありません。
自分の命の危険性がある状況で、あえて、聖霊が言わせる事柄を言う、ということを経験することがありません。
聖霊に、「そのことを言う」ように仕向けられて、急き立てるように「言う」ということが、わかりません。
聖霊は「言わせる霊」です。何を言わせるのか?「イエス・キリストの救いは、それほどまでに劇的に人間を変える。それはすなわち、天地創造の神であり、全く何もないところから天や地や生き物や人間をお造りになった神が、天の父として、御子イエスを信じる信仰のゆえに、その人を、根本から劇的に変えて下さるのである。それほどまでに、御子イエスを信じる信仰によって働く、全能の神であられる天の父の御業は凄まじい」ということを言わせるのです。
使徒の働きにあるペテロ、ステパノ、パウロの信仰告白は、ユダヤ人に向けられて、御子イエスがメシアであると証しをしている信仰告白です。ユダヤ人は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神をよく知っています。その神がユダヤ人/イスラエル人をエジプトから脱出させて下さった神だということを、代々旧約聖書をよく読んで子々孫々に伝えてきている民です。
そのアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神の子供として、メシアとして、ナザレのイエスが現れた。子供であるイエスから見れば、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は「天の父」である。この、歴史的には全く新しい認識が受け入れられるか、受け入れられないか。そうしたギリギリのところで、「ナザレのイエスはメシアである。ナザレのイエスはキュリオスである」と証ししています。
これはユダヤ人/イスラエル人に対する信仰告白です。
ここ日本ではどうか?現代のキリスト教界においてはどうか?何が、命を脅かす危険性がある信仰告白か?
この「主イエスと食事をする教会」のブログでは、そうした信仰告白を毎日のように行なっています。
私は、2017年に召命を受けた時、「殺されることになるんだな」という理解を得て、喜びの涙があふれてきて止まりませんでした。
初代教会の信仰が仮に回復しているとすれば、それは、聖書に100%合致する信仰であって、それを人前で信仰告白した際に、殉教する可能性がある事柄に関する信仰だと考えます。
このサイトで繰り返し書いてきているように、三位一体は、異教であるグノーシスを信奉する司教達、神秘主義である新プラトン主義の薫陶を受けた司教達によって、聖霊が下っていませんから、そのよくわからない聖霊を現在の新約聖書の各書から類推し、議論して、「聖霊は神である」と理解し、とって付けたように、父と子と聖霊とは三つにして一つと、まさに偶像に他ならない呪縛がある神理解を作り上げ、それによって、三位一体を否定すれば即異端という、恐怖政治的な恐怖によるキリスト教会支配のシステムを作り上げ、それ以来、千六百年にわたってキリスト教会群を支配してきています。
それは、少しの英語力があり、少しの調査能力があれば、このインターネットにあふれている無数の文書群に照らして、すぐに、誰でも、理解できる事柄です。
そうして、天の父に教えられ、主イエス・キリストに教えられて、聖書に100%準拠した神理解を理解せていただいて、信仰告白する。聖霊は神ではない。聖霊は天の父から御子イエスの名によって遣わされた霊。神の霊。アダムに吹き込まれた命の息。
それが、イエス・キリストを本当に信じる人に下ると、その人は全く新しい人間として生まれ変わる。見た目はパウロが書くように、ほとんど変化がないかも知れないけれども、その人の内からは、イエス・キリストが福音書でデモンストレーションされた「神の人」としての輝きが照り渡り、主イエスがおっしゃるままに「生ける水の川が心の奥底から湧き出てくる」。その生ける水の川は尽きることがない。それが、主イエス・キリストの死にあずかるバプテスマ(ローマ6章)によっていただくことのできる「いのち」。この「いのち」は、誰も奪うことができない。この「いのち」は、永遠のいのちと直結している。その人は、すでに神の国に入っている。主イエス・キリストも、天の父も、親しく、その人のそばに来て、一緒に住んでくださる。ヨハネ14章〜17章の主イエス最終説教で説明された事柄がそのまま成就している。こうした「いのち」が、聖書で書かれているままに、自分において、与えられた以上、何を恐れる必要があろうか?たとえ、誰かから殺されることがあったとしても、何も恐れることはない。
そうした信仰。ステパノが信仰告白していた信仰。イエスこそが主であり、このイエスを通して全能の神、イスラエルの神であられる天の父と直結する。そうして神の霊である聖霊をいただく。そこに本当の「いのち」がある。「生ける水の川」がこんこんとあふれてくる。そうした「いのち」があり、この「いのち」はもう失われることがありませんから、死んでも生きるのです。