異言や預言だけではまったく足りない | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Pedro Szekely

 

私は、異言や預言に取り組む教会があることを知っています。ある時期、使徒的教会という、一種の会派に属する、ある教会に通っていました。そこは、新使徒的運動(New Apostolic Reformation)と呼ばれる、神学者ピーター・ワグナーが主張する、一種の初代教会回復運動に連なっている教会です。おそらく、世界で5,000ぐらいの、使徒的教会があります。南米にもあることを、YouTube動画で知っています。むしろ南米では多いかも知れません。カトリックが強い地域ですから、それに対するアンチとして起こっている様子があります。



新使徒的運動では、ピーター・ワグナーの神学を基として、いわゆる五役者の回復に取り組みます。「役者」(えきしゃ)は英語で言う"Office"の日本語訳で、「教会における役割」「教会における、人が果たすべき”機能”」という意味があります。

Websterの辞書では、次のように定義されています。
Office
a: a special duty, charge, or position conferred by an exercise of governmental authority and for a public purpose : a position of authority to exercise a public function and to receive whatever emoluments may belong to it
b: a position of responsibility or some degree of executive authority

「公に果たすべき機能で、かつ、統治的な権威によってその人に割り当てられた、特別な職務」といった意味合いです。

「五役者」(ごえきしゃ)は、パウロ書簡の以下の聖句に基づく考え方です。

そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。
第一コリント12:28

こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
エペソ4:11

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
エペソ2:20

教会には、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師の5つの役割を果たす人がいなければならない。それがパウロが働いていた頃の初代教会である。そういう考え方が「五役者」の考え方であり、新使徒的運動のベースを成しています。そうして、個々の教会に「使徒」がいて、「預言者」がいます。また、牧師、教師、伝道者を置きます。

端的には「使徒」がいるのが、使徒的教会の特徴です。また、それに続いて「預言者」もいます。それは以下の聖句があるからです。使徒がいて、預言者がいて、それによって、それは「教会」であり得るという考え方をします。

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
エペソ2:20



そうした教会では、ルターが500年前に開始した教会改革運動であるプロテスタントでは依然として失われている異言や預言に取り組みます。

異言も預言も、パウロ書簡の中の第一コリント12章に書かれている「御霊の賜物」の中の2つの賜物です。御霊の賜物は、この2つに留まらず、奇蹟の賜物や癒しの賜物もあります。また、知恵の言葉や知識の言葉もあります。異言を解き明かす賜物もあります。また、悪霊の追い出しや霊的な戦いには不可欠の賜物である霊を見分ける賜物(聖霊ではない霊を識別する賜物)もあります。そうした御霊の賜物として掲げられているうちのわずか2つが、異言や預言です。

異言や預言”だけ”を取り出して、それが御霊の賜物であると主張する教会関係者は、例えば、奇蹟の賜物についてはどうなのか?例えば、霊を見分ける賜物についてはどうなのか?それを見ているか?経験しているか?同じ教会の誰かにそれが現れているか?そうしたことを、本気で、考え抜かなければなりません。
御霊の賜物について、パウロは色々あるよと書いています。それらの全てが現れて、御霊の賜物です。異言だけ、とか、預言だけ、とかいうことはありません。それら2つしか現れていないのであれば、その教会は不十分です。欠けがあります。どこかおかしい。それは初代教会ではない。そこでは初代教会が回復しているとは言えません。それはおそらく、三位一体という偶像の神の下にいるから、そのようなおかしなことが起こるのです。ピーター・ワグナーも、異端と指弾されるのを恐れずに、三位一体を否定して、三位一体と一切、縁を切るべきでした。

使徒的教会の全ては、本気で五役者の回復を目指すのなら、三位一体と金輪際完全に縁を切り、むしろキリスト教界全体から「使徒的教会は、三位一体を否定しているから異端だ!」と指弾される道を歩むべきなのです。なぜなら、初代教会は、325年ニカイア公会議、381年コンスタンティノープル公会議によって成立した「父と子と聖霊とが三つにして一つ」という、偽の神、人工的な神、偶像中の偶像であり、かつ、ほとんど全てのキリスト教会群を千数百年に渡って支配し続けきている、誠にサタン的な、サタン中のサタンとも言うべき偽の神が成立する前の時代の教会だからです。

さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。
ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。
ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。
さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。
奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。
働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。
ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、
またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、
ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

第一コリント12:4-11



そうした誠に悪魔的な(Satan=The adversary、イスラエルの神に反する)経緯がある事情がわかって、三位一体とは金輪際全く縁を切り、旧約聖書を参照しつつ新約聖書で教えている事柄に、素朴に素朴に取り組んで、幼子のように信じて、かつ、ここが大切ですが、ヤコブ書に行いのない信仰は死んだも同然ですと書いてありますから、「信じた内容を行う」ということに、素朴に素朴に取り組んでいると、真正な聖霊が下ります。同じ信仰を持つ兄弟姉妹のそれぞれに、相前後して、真正な聖霊が下ります。

これこそが本当の聖霊なのか!と驚くことしきりです。なぜなら、使徒の働きやパウロ書簡で書かれているままのことが、目の前で展開するからです。真正な聖霊が下った兄弟や姉妹からは、自然と、神から教えられたとしか考えられない、誰も教えていない事柄が、口からすっと出てきます。

パウロは聖霊に関する記述の一つとして、信徒間に「一致がある」ことを述べています(エペソ4章)。真正な聖霊が下った兄弟姉妹の間では、不思議な「思いの一致」「聖書解釈の一致」「信仰の一致」があります。誰も、特定の聖句を根拠に「ここには、こう書かれているから、あなたの言っていることは間違いだ」的な議論を始める人は、いません。(パウロは分派が肉の働きだと書いています)

旧約聖書を参照しつつ新約聖書が教えていることに素朴に取り組んだ結果、回復した初代教会では、マルコ16章に記されている「しるし」や「不思議」を頻繁に経験することになります。実に不思議です。実に「神が働いているしるし」としか思えない出来事、現象、展開、偶然の一致などなどが、ほぼ毎日のように起こります。

しるしや不思議は、旧約聖書で「生ける神」と何度も書かれており、また「神は生きておられる」と旧約聖書の登場人物があちこちで言い表した、その生ける神であられるイスラエルの神=アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が、新約聖書福音書の中で御子であるイエスによって「天の父」であると紹介された、その天の父が、「生きた神」として何らかの愛の御業をなさる、その愛の御業はイエスが「生ける神の御子である」と信じたことによって、その”信じる人々の間で”起こる、「そこに生きた神がおられる」「生きた神であられる天の父が、生きた神として御業をなさっている」なぜなら「生きた神の御子イエスを信じる信仰があるご自身の息子、娘を愛されているから」ということの、神ならではの表現なのです。

これが、偶像である三位一体の神の下にいると、一切理解できません。また、一切経験できません。十数年そういう所にいましたから、よくわかります。たとえ、使徒的教会であっても、この「生ける神であられる天の父が、生ける神の御子であるイエスを信じる信仰のゆえに、愛の御業としてなさるしるしや不思議」は、一切経験できないです。なぜなら、三位一体と完全に縁を切っていないからです。

まさに以下の聖句は、三位一体の偶像のことです。その偶像と完全に分離しなければ、イスラエルの神が生ける神として、自分自身の本当のお父さんとして御業をなさることはありません。

神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。

第二コリント6:16-18

使徒的教会など、一般的なプロテスタント教会とは一線を画す教義や信仰を教えている教会で取り組まれている異言や預言。それだけでは、無に等しいです。
福音書の中で、イエス・キリストは何を語っておられたか?それのすべてが、本当の初代教会が回復していれば、「全て成就する」のです。聖書で書かれていることが、そのままに成就するのです。本当の信仰が素朴にあれば。

パウロ書簡に書かれていること、ヤコブ、ヨハネ、ペテロの書簡に書かれていること。それが全て真実なのです。書かれているままに展開するのです。

イスラエルの神は絶大なる方です。人知をはるかに超えた方です。創造主です。この神に、御子であるイエスを通じて、近づくことができ、ヨハネ冒頭にあるように、息子、娘となるのです。そうして起こる神の御業は、人の想像をはるかに超えます。神にしかできない御業が、日々の生活において、ごく頻繁に起こります。

本当のイエス・キリストを信じる信仰があれば、そういうことが起こっていきます。
そうして、生ける神である天の父が、本当に生ける神であり、本当に「父」であるということが、身にしみてわかって行きます。結果、ヨハネ4章でイエス・キリストが教えておられる「霊とまことによる礼拝」をする「真の礼拝者」として立て上げられて行きます。