性の深刻な罪をも互いに言い表す関係 - 「互いに愛し合いなさい」、本当は…(2) | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Ted Eytan

 

「互いに愛し合いなさい」、本当はこういうこと(1)
https://ameblo.jp/sasuke-memo2/entry-12741947067.html
の続きです。

教会として、経験によって確かめたのは、聖書に書かれている通りに取り組めば、聖書に書かれている通りのことが起こる、ないし、成就する。聖書に書かれていることから外れれば、やはり、「神の言葉から外れた人(教会)」に関して聖書に書かれている通りのことが起こる。そういうことです。いずれにしても、書かれている通りになります。書かれていたことしか起こらないし、書かれていることは必ず成就する。それが神の言葉です。神を侮ってはいけません。

 

初代教会を回復させる、と言うことと並行して、以下を述べます。

前回投稿にも書きましたが、以下に取り組むことが、初代教会を回復させることでです。

聖書に書いてあるがままのキリスト教会を回復させます。

○「新しい戒め」の重み

「互いに愛し合いなさい」は、主イエス・キリストが「新しい戒め」として、意図的に、強調して置いた教えです。これ以前は、弟子たちの前には、旧約聖書でモーセに与えられた律法と、律法から派生したユダヤ教の種々の規定がありました。その名残は福音書の中のパリサイ派の言動に現れています。非常に細かな規定がありました。安息日に歩いて良いとされる距離は○kmまで、といった具合に。

こうしたモーセの律法、それに付随して後代に付け加えられたたくさんの規定。そうした厳格な決まり事に対して、全く新しい、革命的な教えとして、神の御子であるイエス・キリストは、言ってしまえば、宗教的な人達からすれば拍子抜けするような戒めである「互いに愛し合いなさい」を提示しました。

当時の文脈では、ユダヤ教の枠組みの中でいかに宗教的に厳格であるかが大事でした。いかにモーセの律法に忠実に生きるか。いかに諸々の規定を全て守り行うか。そういう中で、主イエスは、あえて、拍子抜けするような「新しい戒め」「互いに愛し合いなさい」を提示したのです。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

ヨハネ13:34-35

これには、ものすごく、ものすごく深い意味があります。
また、愚直にこの「新しい戒め」を守る人たちには、驚くべき、天の父の愛のある御業が現れ、天の父がいかに愛の神であるかを、何度も何度も経験することになります。

○「互いに愛し合いなさい」は「互いに足を洗い合いなさい」とセット

ヨハネの福音書の文脈から、この「互いに愛し合いなさい」は、「互いに足を洗い合いなさい」という戒めとセットだと理解できます。

こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

ヨハネ13:6-8

イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです

ヨハネ13:12-15

ペテロは後に主イエス・キリストを三度「私は彼を知らない」と人前で言い表す、マイナスの信仰告白をする罪を犯します。三度目には、呪いさえしたと書かれていますから、自分の救い主を徹底的に否定する、かなり重たい罪です。

この重たい罪を、主イエス・キリストは赦します。(ヨハネ21章)

この時、重たい罪を赦し/赦されたからこそ、救い主であるイエス・キリストとペテロとの赦し/赦される関係が生じています。

この赦し/赦される関係が、人間と、神の御子であられる主イエス・キリストの関係の基本です。

主イエス・キリストから赦された!という経験があれば、その人は、主イエス・キリストと本当の関係を持っている。
主イエス・キリストから赦された!という経験がなければ、その人は、主イエス・キリストと関係があるとは言えない。

以下の主イエスのお言葉は、そのことを示しています。

イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
ヨハネ13:8

つまり、イエス・キリストがその人の罪を赦す(足を洗う)ということがなければ、その人とイエス・キリストとは何の関係もない、とおっしゃっているのです。
(これは、十字架をどう受け入れるかに関わる、かなり決定的に重要な事柄です)

○「互いに愛し合いなさい」の核心は「互いに足を洗い合いなさい」

「互いに足を洗い合いなさい」という教えは、「兄弟姉妹の間で、互いに、罪を取り扱いなさい」という教えです。互いの罪を、足を洗うかのようにして洗い合いなさい、という教えです。

それが「互いに愛し合いなさい」に含まれています。

「互いに愛し合いなさい」という教えは、教会の中で、単に仲良くしなさいということではありません。言葉は悪いですが、チャラチャラした関係で、キラキラした相互の関係を維持しなさいという教えではないです。

「互いに愛し合いなさい」は、「互いに足を洗い合いなさい」なので、もっと泥臭い、もっと重たい、もっと深刻なものに向き合う関係です。互いの、もっとも、汚いところを取り扱う関係です。

○皆、ものすごい性の罪を犯して生きてきている

みんなものすごい罪を犯して生きてきています。「罪」とは、旧約聖書のヘブライ語でも、新約聖書のギリシャ語でも「的から外れている」が原義です。「神から外れた状態にある」ということが罪です。刑法上の罪を犯したことがないから、「私には罪はない」という風に言うのが聖書の「罪」ではありません。「神から外れている」、そのことこそが罪なのです。従って、異教の神を信じている人は、聖書の神から見れば、皆、罪ある人です。また、イエス・キリストの教えを守っていない人は、罪がある、と言うことになります。

一般的に、現代人は、インターネットでありとあらゆる性的な情報に触れることが可能ですから、ほぼ全ての人が、ポルノグラフィを繰り返し見る、神から見れば忌まわしい罪を犯してきています。エロティックな女性向けのコミックなども含みます。紙であるか電子書籍であるかを問わず(そのエロティックな女性向けコミック作品があることは、ネットで知るはずです)。

BLも詰まるところは、ソフトな女性向けポルノグラフィです。それにはまり込むことは、聖書の神から見れば、神から外れた状態であり、罪だと言うことになります。

妻子を持つ男性と性交渉を重ねた経験がある女性は少なくないと思います。それももちろん、神から外れた行為であり、罪です。

興味本位でSMのプレイの相手を探し、実際にやってみて、悪魔崇拝的なものに身を晒した(SMは完全に悪魔崇拝であり、背後にはルシファー、バフォメット、サテュロスなどの異教文脈の神がおり、繰り返すことでそれに憑依される格好になります)と言うことがある人も、少なくないでしょう。それももちろん神から外れる行為です。神から外れると、悪魔、悪霊が入り込む余地ができて、実際に悪魔ないし悪霊が入ってしまったと言う人も少なからずいるでしょう。

男性の場合は、小児性愛のポルノグラフィにはまり込んで抜けられなくなった、ないし、SMのポルノにはまり込んで…と言う人も、少なくないと思います。

あるいは、買春です。1980年代、1990年代、女子高生ないし女子中学生を買春した経験がある男性が大都市部でも地方都市でも、相当数いると見ています。数で言えば…200万人は下らないでしょう。それは売春をした側の女性の告白に数度接したことがあるからです。これらももちろん神から外れる行為です。大きな罪です。特に子供に対する性行為は、極めて重たい罪です。

また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
マルコ9:42

セックスにまつわる罪は、尽きることがありません…。

そうした罪を、兄弟姉妹で、足を洗い合うように洗い合いなさいと言う教えが「互いに足を洗い合いなさい」です。そうして、それを実践することが「互いに愛し合いなさい」です。

○初代教会で行われていた、兄弟同士で互いに罪を言い表す行為

なぜここまで書くのか?なぜここまで言うのか?それはキリスト教会なのか?そう疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、それを行うことこそが、キリスト教会の大前提なのです。これは、4世紀にグノーシス/新プラトン主義者の司教達が三位一体の偶像を定めて以降、キリスト教会から失われてしまった伝統です。1世紀〜2世紀の初代教会にはあった伝統です。

 

それは、ヤコブの手紙とヨハネの手紙第一をよく読むと、わかってきます。

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
ヤコブ5:16

しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

第一ヨハネ1:7-10

 

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

マタイ18:19-20

 


続きます。