Courtesy of Ted Eytan
主イエス・キリストがヨハネの福音書13章で弟子たちに伝えた新しい戒め「互いに愛し合いなさい」。これは主イエスが「新しい戒め」であると強調していますから、旧ユダヤ教にある律法だけを守り抜くタイプの宗教活動とは「全く違うものですよ」と、主イエスは教えておられる、と解釈すべきです。
つまり旧ユダヤ教的なものとは全く違う、新しい世界が「互いに愛し合いなさい」を守るキリスト信徒間にはあるよ、ということを教えておられます。
使徒の働きやパウロ書簡に断片的に記されている初代教会の姿を、それら断片を組み合わせて一つの教会の全体像として思い描くと、確かに彼らは、主イエス・キリストから直接的に伝授された「互いに愛し合いなさい」を実践していました。
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「互いに愛し合いなさい」は、同じヨハネ13章にある「互いに足を洗い合いなさい」と同時並行で存在している戒めです。
主イエスは、ペテロに対して、私があなたの足を洗わなければ、私はあなたとは何の関係もない、とおっしゃっています。主イエスは、ペテロに対して、どのように足を洗ったか?
後日、ペテロは、主イエス・キリストを知らないと、三度、公然と否定します。最後には、呪いさえした、と書いてありますから、相当にひどい言葉を口から出したのでしょう。この時、ペテロは、自分が殺されることを恐れて、イエスを知らないと、三度否定したのです。
主イエス・キリストは、人前で、ご自身を知らないという者を、私も天の父の前で、その人を知らないと言う、ということをおっしゃっています(マタイ10:33、ルカ12:9)。ペテロは、最終的に、天の父の前でなされる裁きにおいて、「ペテロ、あなたは公の場で『私を知らない』と言ったから、この裁きの場において、『私もあなたを知らない』と言おう」と、裁かれる…。つまり、羊と山羊が分けられる裁きにおいて、山羊に分類されて、そのまま永遠の燃える火の炉(地獄)に行くような、罪を犯していたのです。
このペテロを、後に、愛の方であられるイエスは、目の前で、「私を愛しますか?」と三度尋ね、「イエスを知らない」と言うのがマイナスの信仰告白だとすれば、プラスの信仰告白を三度させて、公の場でイエスを知らないと言った罪を、赦して下さったのです。その罪を取り扱ったのです。すなわち、足を洗ってくれたのです。
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このようにして、イエスがペテロの足を洗わなければ、イエスとペテロは全く関係のない存在になる。メシアがメシアとして働くことができなくなる。足を洗うことには、それほどまでに深い意味があります。
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互いに足を洗い合いなさいとは、「あたなたちは、同じ信仰を持つ兄弟姉妹として、互いに、互いの罪を取り扱いなさい」という戒めです。
これが、同じヨハネ13章で、「互いに愛し合いなさい」という、新し戒めと同時並行で教えられているのです。
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この戒めが初代教会ではどのように守られていたか?カギは、ヨハネの手紙第一と、ヤコブの手紙にあります。ヨハネは長老中の長老であり、使徒の働きの記述を手掛かりにすると、ヤコブは初代教会の本部であるエルサレム教会の最も重要な長老です。
(当時、長老と言われていた立場は、後に司教と呼ばれるようになる立場と、同一だという記述をどこかで読んだ記憶があります)
どちらも、当時のキリスト教会全体に対して、極めて大きな影響力を持つ書簡です。
その書簡において、ヨハネ第一では「罪を言い表しなさい」と教えられており、ヤコブでは「互いに罪を言い表し、互いに祈りなさい」と教えられています。
これが、初代教会で行われていた「互いに足を洗い合う」です。そうして、そのベースには「互いに愛し合いなさい」があります。
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およそ、自分の最も恥ずかしい罪。絶対に人に言いたくない罪。誰にも秘密にしておいて、親にも言うことがなかった罪。子供の頃から続いている罪。嘘をついて引き戻せなくなってそれからつきつづけている嘘。などなど。
そうした罪を「互いに罪を言い表しなさい」、そうして「互いに祈り合う」。何を祈るか?当然ながら、その罪が赦されるように、主イエス・キリストの名によって、執り成して祈るのです。そうした祈祷会の形が、初代教会で行われていた。
これが、初代教会をかき消してしまった、381年コンスタンティノープル以降の三位一体を掲げるキリスト教会群では、行われなくなった祈祷会の形です。