一人の人に遣わされる人が尊い | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Sidon Courtesy of Philip Hayward

 

神のご計画は実に計り難く、人知をはるかに超えています。

神に遣わされる。
そうした表現に接すると、米国の大衆伝道者のように、数万人の聴衆を相手に、熱狂的な説教を行う、と言ったイメージを持つ人が少なくないと思います。

神に遣わされる、と言うと、極めて多くの人に影響を与える、何かの役割をする…と言うイメージを持つ人が、少なくないです。

これは、悪しき、リバイバル主義の影響だと考えています。

○悪しきリバイバル主義

小職の見立てはこうです。リバイバルは、悪しき聖書解釈である(サタンに影響を受けた英国のジョン・ネルソン・ダービーから生まれた終末に関する聖書解釈「携挙」が元になっている)艱難前携挙説が米国に伝わって、米国で大衆伝道者であるサイラス・スコフィールドらによって「終末が来るから携挙に備えよ」と大衆を扇動し、膨大な数の偽のクリスチャンらを動かして熱狂させた大衆扇動活動から生まれた、ある種の幻想である。
それが日本に伝わって、大正、昭和のリバイバルとなり、もはや気違い沙汰と呼ぶしかない現象を引き起こしました。

Wikipedia:ホーリネス・リバイバル

論文:池上良正  ホーリネス・リバイバルとは何だったのか?


○一人のやもめに遣わされた神の人

神に遣わされるとは、主役は言うまでもなく神であり、神が御心によって行うことです。

従って、神に遣わされる人が、数十億人を対象に何かをしようが、1人か2人の人を対象に何かをしようが、それはひとえに神の御心によるのであって、それを人間がとやかく言うことはできません。

言いたいのは、神の御心は、人間が考えるように、対象人数が多い少ないとは全く別なところで動いていると言うことです。

聖書で参考になるのは、シドンのツァレファテ(新約聖書のルカ4章ではサレプタ)のやもめの所に行くように言われたエリヤです。第一列王記17章にそのエピソードが書いてあります。

これを後に主イエス・キリストが引用して、次のようにおっしゃっています。

また、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。
わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、
エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。
また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、ツァラアトに冒された人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」

ルカ4:24-27

つまり、神の御心によると、ある特定の神の人が(エリヤは「神の人」と呼ばれています。第一列王記17章、第二列王記1章)、ある特定の人にのみ遣わされる、と言うことがある、と言うことです。

○一人の人パウロから異邦人の福音が広まった

ここで、私たちが思い起こさなければならないのは、私たちの救い主、主イエス・キリストの誕生も、ベツレヘムのごく狭い地域で起こったことであると言うことです。かつ、それの当事者は、マリヤとヨセフ、それに御使いに教えられた羊飼いたち、星に導かれた東方の博士たち、そうした、ごく限られた数の人しかいませんでした。

後に、私たち異邦人にも主イエス・キリストの福音が伝えられるきっかけとなったのは、パウロと言う、ただ一人の人に、主イエス・キリストによって直接的に福音が伝えられ、彼が異邦人への福音を委ねられた…、その彼一人に起こった出来事がきっかけになっています。

神は、このように、一人の神の人に強く働き、特定の人に影響を与えるように、すなわち、神の御心が成就するように、仕向けていくと言うことがあります。

○救われる少ないか多いかは、私たちが感知することではない

従って、これから神に召される人、また、すでに神に召されている人は、その人の活動領域が、たとえ、対象人数で言えば一人とか二人とかであっても、それが、その人が神から聞いた活動であるのならば、それを、喜んで、感謝を持って行うべきだと言うことです。

その一人の人、ないし二人の人から、数億人、数十億人が救われる何かが始まるのかも知れませんし、そうでないのかも知れません。

大切なのは、神の御心が成ることです。
神の栄光が現れ、それとともに、主イエス・キリストの御名が褒め称えられることです。

同様に、例え、救われる人が、数十億人と言った規模ではなく、数百人、数千人規模であったとしても、それが、御心であるのならば、それを受け止めて、そこに現れる主の栄光を褒め称え、主イエス・キリストの御名を褒め称えるのが、キリスト信徒の行うべきことです。

天の父が救われたのは、ノアの時代には、たった夫婦4組だけであったと言うことを、忘れてはいけません。