世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
1ヨハ2:15
極めて理解しにくいこの御言葉も、本当の聖霊が下ってみると、ああそういうことかとわかる。
神の国 vs 世 という図式。
聖霊 vs サタン・悪霊 という図式
ものすごくわかりやすい言い方をすると。極端な例で。
ゲームをやると悪霊が憑く(例)。それが世、サタン悪霊の居場所
ゲームを捨てると聖霊が喜ぶ。それが、神の国を守ること。
わかりやすい例で言えば。
神の国を出現させるには、サタン悪霊を除去しないといけない。サタン悪霊の除去なしには、その人の内や周囲に神の国は来ない。経験上から言っても主イエスの御言葉から言っても。ルカ11:20参照。
世を愛するとはサタン悪霊の居場所から出ない姿勢。わかりやすく言えば。
天の父は聖なる父。ヨハ17:11
サタン悪霊がいる限り、聖なる父は御業をなさらない。
主イエスの名でサタン悪霊を除去して歩けば、そこに神の国が来る。イコール、聖なる父が親しく御業をなさる領域となる。
世を愛する=サタン悪霊の領域を愛すること
それだと天の父を愛していることにならない。
天の父を、新約聖書だけで考えるのではなく、旧約聖書のモーセに現れた神としてイメージすると良い。汚れたものには一切、触れない神であるし、偶像崇拝によって、イスラエルの民を1日に数万人死に至らしめる神。霊的な汚れを許容できない方。
その方に近づくには、サタン悪霊を除去しないといけない。
カトリック教会には残念ながら複数の偶像崇拝があるので、聖なる父であられるイスラエルの神は近づくことすらできない。偶像の巣窟。
プロテスタント教会も残念ながら「御言葉を引用することで神に近づく」偶像があるので、聖なる父であられるイスラエルの神は近づくことができない。
三位一体も偶像。
形ある偶像にせよ、形のない偶像にせよ、旧約聖書で「生ける神」と言われている方は、偶像があるところには絶対に近づかない。
御子イエスから、聖なる父、と言われた方。
聖である、ということ。
対する、霊的に汚れている/穢れていること。
この区別が既存教会ではわからない。霊的な盲目がある。
悪霊の追い出しを積極的にやり、エペソ6章霊的な戦いを積極的にやっていると、霊的な穢れにものすごく敏感になる。
霊的な穢れを積極的に、主イエスの名で除去・聖絶することを繰り返していると、そこに天の父が親しく来られるのがわかるようになる。第一ヨハネ御父と御子との交わりに入れる。
三位一体がすでに偶像崇拝中の偶像であるため、既存のキリスト教会にいるうちは、聖なる父との交わりはないのだと結論づけた。
長いこと悩んでいた。なぜ教会の人達は、天の父をよく知らないのかと。
三位一体の教会にいる限りは、聖なる父は、近づけないのだ。それがわかったのが最近。
真正なキリスト教会は、聖なる父であられ、イスラエルの神であられる方を、本当の聖霊をいただいて、御子イエスを通じて礼拝する、霊的な実体にある。
家であろうが、その他の建物であろうが。
それが成立するための条件は、第二コリント汚れたものと分離せよ。