日曜投稿:罪を取り扱うための「互いに足を洗い合いなさい」 | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Susanne Nilsson

 

先週の「主イエスの戒め「互いに愛し合うこと」は到達点」の続きです。ハレルヤ!

初代教会の頃は、教会の中に、互いの罪を取り扱うための仕組みがあったようです。ここで言う罪とは、日本で言う犯罪のような罪ではなく(それも含みますが)、ギリシャ語原語で罪=ハマルティアと呼ばれている、神から見て「的外れ」になっている状態です。

ギリシャ語新約聖書原典の「罪」(ハマルティア)については、以前の投稿で調べてまとめましたので、興味のある方はお読み下さい。

聖書で言う「罪」と日本語で言う「罪」が少し異なることについて



罪を取り扱うための仕組みとは、以下のみことばからうかがい知ることができます。

信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

(ヤコブ5:15-16)

福音書でヤコブは主イエス・キリストの兄弟として記されており、ヤコブの手紙も彼が書いたものだと言われています。ヤコブは設立された当初の初代教会のことをよく知っていたことに間違いはありませんから、「互いに罪を言い表す」ことと、「互いのために祈る」ことは、当時の教会でよく行われていたと推察できます。

主イエスは、2人、3人、主イエスの名によって集まるところには、主イエスがいらっしゃるとおっしゃっています。

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。
(マタイ18:20)

従って、互いに祈り合うところには、必ず、主イエスがいらっしゃって、罪の赦しなり癒しなり、神の業が起こります。これは信仰によって、そこに神の力が働かれるのです。

ヤコブは「信仰による祈り」により「もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます」と確信を持って言っています。それを「互いに罪を言い表し合い」「互いのために祈り合う」形で行うことを推奨しています。

ヤコブ5:15-16をまとめれば、1)信仰による祈りを祈り合う兄弟姉妹の関係で、2)互いに罪を言い表す、2)互いのために祈る、4)罪が赦される・癒される、となります。



ここで罪の赦しが発生するのは、信仰により、主イエス・キリストの十字架が働き、主イエスの血の注ぎかけが起こるからです。そこを説明します。

罪が赦されることについては、聖書の中で記されているいくつかのことが組み合わさっています。旧約の内容があり、それに呼応する新約の内容があります。

まず、神からの罪の赦しが起こるためには、いけにえ(犠牲)が必要だと言うこと。

毎日、贖罪のために、罪のためのいけにえとして雄牛一頭をささげなければならない。祭壇のための贖いをするときには、その上に罪のためのいけにえをささげ、これを聖別するために油をそそぐ。
(出エジプト記29章)

この旧約聖書の基本発想には、人が犯した罪は、本来、その人自身の死をもって償う必要があるということが前提になっています。自分の命の身代わりに、動物のいけにえが使われるのです。罪の赦しには、命の犠牲が必要なのです。神はそのことを、モーセの律法や申命記などの律法によって人々に教えました。

このいけにえが、新約の時代には、神の御子イエスご自身となります。


すべての人間をお造りになった神=天の父のひとり子であるイエスが、罪のための犠牲になったことで、それによる赦しは、すべての人間に及ぶこととなりました。赦されるためには、ただ、十字架の主イエスを見上げれば良いのです。すなわち、主イエス・キリストを信じれば良いのです。

その原型が以下の民数記にあります。

すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

(民数記21:8-9)



もう一つ、罪の赦しのためには、いけにえの血が不可欠です。血によって罪が清められます。これが旧約聖書の基本発想です。

アロンは年に一度、贖罪のための、罪のためのいけにえの血によって、その角の上で贖いをする。すなわち、あなたがたは代々、年に一度このために、贖いをしなければならない。これは、【主】に対して最も聖なるものである。」
(出エジプト30:10)

(「贖罪」とは、罪のあがないのこと。あがないとは、罪が赦されるために、代価を支払うこと。旧約の時代には、罪を犯した人はいけにえの動物をお金で買って、あがないとしていました。新約の時代は、神の御子イエスご自身があがないの代価となりました。)

「罪のためのいけにえの血」が、神である主に対して、最も聖なるものだと書かれています。この聖なる血によって、罪を犯した人が清められるのです。そして、その罪とは、上で記したように、神から見て「的外れ」であることのすべてです。よって、偶像崇拝、本当の神以外のものを拝んだことも含まれます。不品行、姦淫もそうです。

罪のためのいけにえの血を、罪を犯した人自身に塗り付けることも行われていました。罪から来る汚れから清めるためです。

罪のためのいけにえと全焼のいけにえをほふった所、すなわち聖なる所で、その雄の子羊をほふる。罪のためのいけにえと同様に、罪過のためのいけにえも祭司のものとなるからである。これは最も聖なるものである。
祭司は罪過のためのいけにえの血を取り、それをきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつける。

(レビ記14:14)



この血が、新約の時代には、罪をまったく犯したことのない神の小羊である主イエスの血として、私たちの前に差し出されたのです。

主イエスの血には、罪をあがなう(罪の赦しの代価を支払う)、罪を赦す、罪から来るすべての汚れから清めるという3つの役割があります。(その他、新しい契約の「契約の血」という意味もありますが、この説明は別な機会に譲ります)根拠聖句は以下の3つです。

この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
(エペソ1:7)

それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
(ヘブル9:22)

もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

(ヘブル9:13-14)

新約の時代には、すべての人間のためにいけにえとなった神の子イエスの血が、罪をあがない、罪を赦し、罪から来るすべての汚れから清めて下さいます。このことは、関連するみことばを読み込んで、吟味して、口ずさんでいく中で得られる信仰によって、実現します。



それではこの、いけにえとしての十字架の主イエス・キリストと、罪をあがない、罪を赦し、罪から来るすべての汚れから清めて下さる主イエスの血が、教会の中で、「互いに罪を言い表す」ことと「互いに祈り合うこと」(ヤコブ5:16)とどう関係があるのか?

十字架のイエスとイエスの血は、信仰によって受け取るものです。目に見える物質として存在しているわけではありません。聖餐式の血の象徴であるぶどう酒も、これも象徴であって、それ自体が罪をあがなう・赦す・汚れから清める訳ではなく、信仰によって受け止めるものです。(神学的に、聖餐式のぶどう酒に罪の清めの働きがあると解釈する会派もありますが、それは例外とします)

聖餐式に関する記述以外のイエスの血に関する記述も、すべて、信仰によって受け止めることが前提となっています。特にヘブル書に多くのイエスの血に関する記述があります。

 

イエスの血に関しては、教会でまとまった形で教えられることが少ないため、わかりにくいところがあります。デリック・プリンスの非常に優れた教材である、こちらの動画を見て学ぶことをお勧めします。

「イエスの血潮の働きについて」デリック・プリンス
(イエスの血潮とイエスの血とは、どちらも同じです。英語訳ではどちらもThe Blood of Jesus)




初代教会の頃の教会は、大きな教会センターはエルサレレム、アンテオケア、コリントなどにあったものの、日常的な集会・礼拝は、今で言う家の教会が主体となっていたようです。ここでは、常に現在の牧師のような存在がいて、毎回の集会で特定の牧師(教師)が説教をしていた訳ではなく、教会員同士が相互に教え合い、相互に励まし合い、相互にみことばを朗読しあって、相互に祈り、相互に賛美する…。そのような「相互に何かを行う関係」が教会活動の主軸だったようです。新約聖書の様々な記述からそのように言えます。

使徒も預言者もいましたが、彼らは、様々な家の教会を渡り歩いて、大切な教えをシェアしたり、御霊の賜物を按手によって分け与えたりしていました。1つの教会に常設的に使徒がいた、常設的に預言者がいた、というものではないようです。

従って、罪を取り扱う際にも、罪の言い表しを聴くのが専門のカトリックの聴罪師のような存在がいた訳ではありません。また、プロテスタント教会で行われているように、牧師が相談を受ける役割で、信徒は相談をする立場、という固定的な関係があった訳ではなりません。

相互に罪を言い表し、相互にとりなして祈り合う関係がありました。この「相互に〜し合う」関係がきわめて重要です。また、現代の教会からは失われており、それは残念なことですが、インターネットで結びついている兄弟姉妹同士で、これに近いことが行われているように思います。

罪を言い表すことが不可欠であることは、以下の第一ヨハネでも説明されています。

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

(第一ヨハネ1:8-10)

新約の時代、主イエス・キリストの十字架以降は、罪は言い表すことによって、赦されるのです。これは、上に記した主イエス・キリストのいけにえと血の信仰がベースにあります。



罪は大変に重たいものです。また、自分の内の罪は、自分でも認めにくいです。さらに、聖書で言う、神から見て「的外れ」である罪(ハマルティア)は、自分でもどれが罪でどれが罪でないかを識別することが難しい時があります。

こうした罪は、当時の教会の中では、複数の教会員が御霊の賜物により(第一コリント12章)、その人の内にある罪を教えられ、それを明らかにして、「罪の言い表し」に導かれ、その後にとりなしの祈りが続くという流れで、取り扱われていたようです。

それをうかがい知ることができるのが、以下のパウロ書簡の記述です。

ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか。
しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、
心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。

(第一コリント14:23-25)

ここでは、小規模な信徒同士の集まり(=エクレーシア=教会)において、預言に取り組んでいるならば、新しい人がその教会を訪れた時に、教会員(複数)が預言によって、その人の内にある罪(神から見て的外れであること。例えば偶像崇拝をして生きてきたこと)を言い表すことができ、それによって「心の秘密があらわ」にされる、ということを書いています。

これは教会内預言に取り組んでいないとわかりにくいことですが、聖霊により、その人のことが示されるということが、基本になっています。これは、誰かを裁くために示されるのではなく、その人が主イエス・キリストにあってよりよく生きるために示されるのです。預言は教会の徳を高めると第一コリントにあります。預言は裁くためのものではなく、教会員相互の徳を高めるためのものです。

そこで、初めての人が教会にやってきても、その方が取り扱いに困っている罪、心の秘密が、複数の教会員によって預言として言われ、それによって、聖霊が働いているのだ、神が働いているのだ、ということがはっきりとわかって、「ああ、神様はすばらしい!」となる。そういう流れを上の第一コリント14章では述べています。

 

この教会内預言のことは、ここで留めておきます。互いに罪を言い表しなさい、について話を続けます。



主イエスの新しい戒めであり、最も重要な戒めである「互いに愛し合いなさい」については、先週の投稿で説明しました。これは「兄弟姉妹の間で互いに愛し合うこと」だということも書きました。

ヤコブの「互いに罪を言い表し合う」ことと、「互いに祈り合う」ことは、兄弟姉妹の間で「互いに愛し合うこと」の実践でもあります。

主イエスは、「互いに愛し合うこと」の別なたとえとして、「互いに足を洗い合うこと」を教えられました。これは、主イエスの教えを丁寧にたどると「互いに罪を取り扱うこと」だということがわかってきます。

イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。
あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです

(ヨハネ13:12-17)

主イエスが弟子の足を洗うことは、別な部分で「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」とおっしゃっていますから、十字架による罪のあがないだとわかります。神のひとり子であるイエスがご自身の命を捨てて、私たちの罪を取り扱って下さったのです。それが「足を洗う」ことです。

互いに足を洗い合うとは、主イエスが私たちの罪を取り扱って下さったように、兄弟姉妹同士で互いに罪を取り扱い合うことです。それはすなわち、ヤコブ5章にあるように、互いに罪を言い表し合うこと、そして、互いに祈り合うこと。これを行うと、主イエスから祝福されるのです。なぜなら、そこに「互いに愛し合いなさい」の究極の形があるからです。



相手の罪を受け止めることは、大変に重たいものですし、つらいことです。しかし、それをはるかに上回る重さやつらさを、その相手ご本人が抱えて生きてきているのです。

第一ヨハネに「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」とありますから、私たちが一人で祈る際に、主イエスに向き合い、また天の父に向き合って、私たちの口で罪を言い表すことにも、大きな意味があります。一人で神に向き合い、一人で神の前に罪を言い表して祈ることも、尊いことです。

一方で、兄弟姉妹で互いに愛し合う中で、罪を言い表し、祈り合う行為には、もっと尊いものがあるのだと言うことを、最近、経験により理解するようになりました。

相手の罪を受け止め、とりなして祈る行為には、多かれ少なかれ、受け入れにくいものを受け入れるプロセスが伴います。

それは、多かれ少なかれ、「友のために自分の命を捨てる」というプロセスになります。この場合「命を捨てる」とは、相手のために何かを犠牲にするということです。物事の善悪に関する自分の考えを捨てて、相手のありのままを受け入れるとか、聖書にこう書いてある、ああ書いてあると裁かずに、相手の罪を赦す立場で話を聞くとか、そういうことです。互いに罪を言い表し合う関係では、「友のために自分の命を捨てる」が、おそらくはかなりの高頻度で起こります。

従って、以下のみことばが成就します。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
(ヨハネ15:13)

このことを行うので、主イエスから祝福されるのです。

 

互いに罪を言い表し、互いに祈り合う関係は、互いに足を洗い合う関係です。

それは、主イエスの大切な戒め、互いに愛し合いなさいを実践する関係です。

時々、自分の命をその友のために捨てなければならないことが起こります。

それを行うと、主イエスと同じことを行なっていることになり、それはそれ以上のものがない大きな愛ですから、主イエスから大いに祝福されるのです。