日曜投稿:主イエスの戒め「互いに愛し合うこと」は到達点 | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

John

 

イエス様が十字架に付けられる前の晩の最後のメッセージ、ヨハネの福音書14章〜17章では、新約聖書の重要な教えがぎゅっと凝縮されて、イエス様ご自身のお言葉として語られています。天の父がどんな存在か。天の父と御子イエスの関係はどのようなものか。御子イエスと私たちの関係はどのようなものか。聖霊はどのような存在か。
これらのことから、いわゆる三位一体の神のあり方が、イエス様の口から出るみことばとして私たちに迫ってきます。

また、祈り方についても教えています。主イエス・キリストの名によって祈ること。主イエスの名によって天の父に求めれば、何でも与えられること。主イエスの名によって、主イエスご自身に求めれば、何でもして下さること。また、先々週の投稿でも取り上げた「神の名の本質」「イエスという名の本質」が、イエス様ご自身の言葉として語られています。

これらのことは情報ではなく、知識でもなく、神の言葉であるので、信仰によって受け止めて理解します。信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです、とローマ10:17にありますから、キリストについてのみことばを聞き続けることによって、信仰が芽生えてきます。



ヨハネ14章〜17章の中でも、もっとも重要だと考えられるイエス様のメッセージは「互いに愛し合うこと」です。この投稿では、この「互いに愛し合うこと」を掘り下げます。

ヨハネ15章で主イエスは次のように語られています。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

(ヨハネ15:9-11)

「主イエスの戒め」を守ることによって「主イエスの愛の中」に留まることができます。主の戒めは、モーセの十戒の戒めとは異なります。主イエスの戒めを守らなければ、主イエスの愛の中に留まることができないと読むこともできますから、主イエスの戒めはきわめて重要です。

続くヨハネ15章12節からは、次のように語っておられます。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

(ヨハネ15:12-14)

この3節では多数の重要なことが教えられています。1つひとつ噛み砕いでいくと次のようになります。

1. 「わたしがあなたがたを愛したように」。主イエスの愛の姿勢が「互いに愛し合うこと」のお手本だということです。具体的には、以下で語られる「友ために命を捨てる」ことがカギです。

2. 「あなたがたも互いに愛し合うこと」。神と人との間に生じる愛ではなく、人と人との間にある愛のことを言っています。「互いに」=互いに対等な立場で。「愛し合う」=お互いがお互いを愛する。どちらかが一方的に愛するのではないです。また、この愛し合う関係は、主イエスを信じる兄弟姉妹の愛について語っています(前後関係から。また第一ヨハネの聖句から)。クリスチャンとノンクリスチャンとの間で生じる愛ではなく、クリスチャン同士の愛です。これには深い意味があります。

3. 「これがわたしの戒めです」。つまり、主イエスが教える独自の戒め、旧約にはなかった戒めがこれであるということです。互いに愛し合うこと。それも主イエスがなさったように、互いに愛し合うこと。

4. 「人がその友のためにいのちを捨てる」。この「命」とは「いま自分が生きている人間としての命」を捨てることから、比喩的に「自分に属する事柄」(好きなものや手放したくないものなど)を捨てることまで、幅広いものが含まれると解釈できます。「捨てる」とは犠牲にすることです。主イエスが十字架でご自身の命を犠牲にされたように、私たちも私たちに関する何か(命に相当するもの)を友のために犠牲にすることが言われています。「友のために」=主イエスにある兄弟姉妹のために。

5. 「これよりも大きな愛はだれも持っていません」。「人がその友のためにいのちを捨てる」ことが最も大きな愛だということです。

6. 「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら」。主イエスの戒めを守ること、兄弟姉妹で互いに愛し合うことをするならば。

7. 「あなたがたはわたしの友です」。主イエスの戒めを守って、兄弟姉妹で互いに愛し合うなら、その人たちは主イエスの友となります。

3節しかない部分ですが、きわめて重要な主イエス・キリストの教えが凝縮されています。何度も何度も繰り返し読んで、咀嚼する必要があると思います。

一言でまとめれば、兄弟姉妹のために自分の何かを犠牲にして愛し合うなら、その人は主イエスの友だということです。友とは、別なところで説明されていますが、先生と弟子の関係ではなく。また、神と人間の関係ではなく、対等な友だちだといういうことです。これは、ものすごく深い主イエスの愛がそこにあるということです。



続くヨハネ15章15節からは、同じ内容が別な視点から説明されています。お読み下さい。

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。
もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。

(ヨハネ15:15-18)

「互いに愛し合うこと」は、ヨハネ15章に先立つヨハネ13章でも説明されています。これは「新しい戒め」だとあります。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

(ヨハネ13:34-35)

なぜ「新しい戒め」なのか?イエス様がいらっしゃった当時の時代背景が関係しています。イエス様は、ユダヤ教社会のユダヤ教徒としてお生れになりました。当時、キリスト教があった訳ではありません。キリスト教の骨格がまったくなかったところから、イエス様が宣教を開始され、十二弟子の任命、十字架、復活へと展開します。当時の「戒め」とは主にモーセの十戒です。ユダヤ教の根幹がモーセの十戒です。この中には「互いに愛し合いなさい」という戒めはありません。もっと厳しい戒めばかりが並んでいます。

それに対して、主イエスは、人々の意表を突くような内容の「互いに愛し合いなさい」を戒めとして提示されました。これが「新しい」ということです。

しかし、この新しい戒めは、実に深いものを含んでいます。モーセの十戒が、なになにしてはならないという、禁止の命令であったのに対し、主イエスの新しい戒めは、積極的になになにしなさい、という奨励する命令です。「憎んではならない」といった禁止の命令ではなく、「積極的に互いに愛し合いなさい」と、兄弟同士が互いに愛し合うことを肯定的に勧めている命令です。これが非常に新しい訳です。

しかも、さらに、きわめて深遠な内容を含んでいます。



このヨハネ福音書のギリシャ語原典の「戒め」に当たる言葉"entolé"を確かめてみると、非常に深い内容があることがわかってきます。イエス様がこの新しい戒めで想定されている実に深い愛の内容がわかってきます。

新約聖書のギリシャ語を解説して定評のあるStrong's Concordanceの"entolé"(戒め)の項には、次のように書いてあります。

1785 entolḗ (a feminine noun derived from 1722 /en, "in," which intensifies 5056 /télos, "reach the end, consummation") – properly, "in the end," focusing on the end-result (objective) of a command.
1785番entolḗ(語幹を説明すると1722番enから派生した女性名詞"in"が5056 番télosを強調し「結末に到達すること、成就」という意味になる) 端的に「最後には」という意味になり「命令の最終結果」が強調されている。

日本語訳が難しいですが、平たく言えば、イエス様が使った「戒め」のギリシャ語"entolé"は、「戒めを守った最後に生じる結果」という意味です。つまり、イエス様の戒めを守って行ってどこに行き着くかと言うと、「互いに愛し合う」に到達するということです。
イエス様に付き従って歩んでいくと、兄弟姉妹で互いに愛し合うところに到達するよ、ということをおっしゃっているのです。

しかも、このStrong's Concordanceの"entolé"の説明には、もう一つの興味深い内容が含まれています。上の日本語訳で「結末に到達すること、成就」と訳した「成就」の部分の"consummation"には「最終的に結婚に至る」という意味があります。新約聖書で「結婚」と言えば、パウロがエペソ5章で説明している主イエス・キリストと教会の関係です。

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。

(エペソ5:25-29)

つまり、主イエス・キリストがヨハネの福音書13章、15章で説明している「新しい戒め」である、兄弟姉妹が互いに愛し合うことは、主イエスの道を忠実に歩んだ結果生じるものであり、かつ、主イエスの花嫁として整えられた人たちが至る、主イエスとの一体化の結末を指している、ということになります。

実に深いと言わなければなりません。



以上の「互いに愛し合うこと」はヨハネの福音書の記載でしたが、同じ聖書記者ヨハネによるヨハネの手紙第一(第一ヨハネ)では、この主イエスの戒めを守ることが、神の愛を知るためには不可欠のものであることが示されます。

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

(第一ヨハネ4:7-12)

ここでヨハネが書いている「もし私たちが互いに愛し合うなら」には、主イエスの教えにあった「自分の友のために命を捨てること」を含んでいると思います。上でも書きましたが、「自分の友のために命を捨てること」とは、兄弟姉妹ために何かを犠牲にして愛し合うことです。これの具体的な形については、来週の投稿で述べたいと思いますが、「何かを犠牲にする」要素がかなり重要であることは確か。それを行なってこそ、主イエスの戒めを守ったことになり、主イエスの友になるということです。

その「何かを犠牲にすること」のヒントが、ヨハネの福音書で主イエス・キリストが示された「互いに足を洗い合う」行為です(ヨハネ13章)。これについて来週述べます。

第一ヨハネでは繰り返し、愛が説明されています。以下の6節もそうです。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

(第一ヨハネ4:16-21)

最後の「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」は、実に深い教えだと言わなければなりません。なぜ「兄弟」なのか?なぜノンクリスチャンの方々ではないのか?

主イエスの愛は誰に向けられているか?それは例えば、以下の主イエスのお言葉をよく読むとわかってきます。

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

(ヨハネ17:21-23)

「彼ら」が「一つ」になるように主イエスは祈っています。
「彼ら」とは、天の父が世から取り出して主イエスにお渡しになった人たちです。

わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。
(ヨハネ17:6)

こうした、天の父が世から取り出して主イエスに渡して下さった人たちが「兄弟」であり、天の父の御心が働いている存在である以上、人間的な基準で憎んだり裁いたりしてはならないのです。そうすることは、天の父の御心に反するということになります。

主イエスの新しい戒め、「互いに愛し合いなさい」は、兄弟姉妹で互いに愛し合いなさいであり、それは、天の父がお選びになって世から取り出した人たち同士で大切にし合いなさい、ということです。相手のために何かを犠牲にすることが(互いに足を洗い合うことが)、主イエスの喜ばれることだということです。すばらしいと言わなければなりません。