日曜投稿:クリスマスのインマヌエル、家族になる預言 | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

John

 

新約聖書、特に、ヨハネの福音書で「父」と呼ばれている神が、「ああ、自分のお父さんなんだなあ」ということが、素朴にわかるようになると、御子イエスの福音も素朴にわかるようになる。そういう関係があるようです。

父がわかれば子がわかる。子がわかれば父がわかる。子は父と一体であり、父は子を愛しておられる。この霊的な関係を聖霊が満たして人に及ぼして下さる。ヨハネの福音書の14章、15章、16章を繰り返し読んでいると、それも黙読ではなく、口ずさんで読んでいると、そういう理解が切り開かれていきます。

イエス様がおっしゃるように、みことばは霊であり、命です。みことばは命のパンです。自分が霊的に弱った時、すなわち、この世の事柄によって(肉によって)押しつぶされそうになっている時に、命のパンであるみことばの、特に自分に必要なところを、何度も何度も繰り返し繰り返し口ずさんでいると、霊としてのみことばが自分に染み渡って、霊的な状況を刷新します。

 

さらにその言葉を、外に向かって言うと(=宣言すると、ないしは、告白すると、ないしは対象に向かって命令すると)、目に見えない領域=霊的な領域で起こった変化が目に見える領域にも現れて、変化が目で確かめられるものとなります。

 

この原理を直接的に説明しているのが、イエス様が言う「山が動く」教えです。マタイ21章とマルコ11章に書いてあります。ぜひご自分で読んで確かめて下さい。聖書をお持ちでない方は、無料のスマホアプリとして提供されている「聴くドラマ聖書」がいいでしょう。新改訳聖書2017年版のテキストとしての聖書も含まれています。



クリスマスの頃になると、教会では「インマヌエル」という言葉がよく聴かれるようになります。教会に通い始めて1年、2年、3年と経つと、毎年のクリスマスの時期の行事や礼拝の進め方がよくわかってきます。そうして、決まってこの時期に、「インマヌエル」という言葉をよく目にするなあという印象を持つようになると思います。

イエスご生誕の一部始終は、聖書では、福音書の中でも、マタイの福音書とルカの福音書に書かれています。中でも「インマヌエル」という言葉は、マタイの福音書の1章に出てきます。

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
(マタイ1:23)

聖書の本文の中に「インマヌエル」の意味がすでに記してあります。英語版で確かめて見ましたが、すべての英語版でそうであり、ギリシャ語原典においてすでに「訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。」という記述があります。


インマヌエルとは「神は私たちとともにおられる」という意味であり、この時生まれた男の子はそのように呼ばれるようになると述べています。
平たく言えば、「この男の子によって、神が私たちとともにおられるようになる」ということです。

それまでは、神は私たちとともにいなかった。
しかし、この男の子によって、神が私たちとともにいるようになる。
そういうことを言っています。

まったく同じ文章が、イザヤ7:14にもあります。

それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。
(イザヤ7:14)

これは、イエス聖誕の800年前のイザヤが記した預言が、当時のユダヤ人社会によく知れ渡っていて、そのイザヤの預言が800年経って成就したよ、ということを、マタイという福音記者がかなりの驚きをもって、また賛美をもって、書き留めたということです。イザヤの預言がまさにその通りに起こった。ハレルヤ!ということです。

「処女がみごもっている」ということの理解は、現代的な考え方をする人には難しいかも知れませんが、次のことを念頭に置くとよいでしょう。

1. 神は預言をなさる方である。
2. 神は預言を必ず成就なさる方である。
3. 神のわざは人知をはるかに超える。
4. 創世記にある通り、神は天地万物をお造りになった。人間も神がお造りになった。全知全能のお方である。神に不可能なことは一つもない。
5. イエスは子としての神であり、神であられるのにこの世に人間としてお生まれになった。それはイエスを信じるもの全てを永遠の滅び(地獄)から救うべく、十字架にかけられる犠牲になるために。

のちに十字架にかかってご自身をお捧げになり、三日目によみがえって、悪魔のすべてのわざを打ち破って、信じるものすべてを永遠の命に引き上げて下さる、子しての神イエスは、そのご生誕そのものが奇跡であったということです。処女がみごもるということは、それが奇跡であったということ。まさに、神のわざとしてご生誕があったことを示しています。アーメン!ハレルヤ!



子なる神イエスが成したことはたくさんありますが、大きなこととして、自分が子であり、父という神の存在をはっきりと示したということがあります。
この父は、子なるイエスにとって父であるだけでなく、私たちにとっても「父」です。
神が遠いところにいる神でなく、実は非常に近いところにいる、あなたにとっての家族としての父だということを、子であるイエスが示したのです。

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
(ヨハネ14:18)

この聖句も見逃されがちですが、ここで「孤児」と訳されている言葉は、ギリシャ語原典を確かめると「父のいない子ども」という意味があります。あなたたちを「父のいない子ども」にはしない、とイエスが言っているのです。つまり、「父がいる子ども」にすると言っています。

その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
(ヨハネ14:20)

ここで、冒頭に記した、父と子の、人間の言葉では表現しにくい一体の関係が言い表されていますが、その関係に、私たちも入るわけです。つまり、父がいて、子がいる家族の関係に、私たちも入るということです。

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
(ヨハネ14:23)

ここでは、私たちが子を愛するから、父がやってきて一緒に住む、ということが説明されています。「一緒に住む」のは、家族の関係です。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

(ヨハネ15:9-10)

これも家族関係の秘訣を語っています。「わたしの戒めを守る」とは、上記ヨハネの福音書14:23で説明されている「わたしのことばを守る」と同じ意味。イエスは、人となられたみことばとしての位置付けがありますから(ヨハネの手紙第一1:1-3)、イエスを愛することはみことばを愛すること。イエスを愛するからみことばを守る。特にこの「守る」のギリシャ語原義には「みことばが成就するのを注意深く見守る」「みことばを敵がダメにしないように敵から守る」という意味もあります。御子イエスはそのようにして、父の戒めを守っている。同じように、御子イエスを愛する者も、御子イエスの命であるとも言えるみことばを守る。成就するように見守るし、敵の攻撃から守る。そういうことをするから家族だよ、と説明しています。



子である神が父である神を証しして、さらにその子と父の関係に招き入れてくれた。それによって、私たちが神の子どもとなり、天の父という父を持つ存在になった。新約聖書には「神の子ども」という表現がたくさん出てきます。みな、そういうことを言っています。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

(ヨハネ1:12-13)

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
(ローマ8:14)

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
(ガラテヤ3:26)

私たちが神の子どもであるとは、子を信じることによって父を持つ存在となり、父なる神と子なるイエスとの家族関係の中にいられるようになった家族ということです。子を通じて父につながります。イエスを信じて父なる神に結ばれます。



このことも現代人的なものの考え方では信じにくいのですが、聖書のみことばの霊としての側面を受け入れることができるようになるためには、ある時期、古代イスラエルの民のようにみことばを1日30分以上口ずさみ続けて(ヨシュア記1:5、詩編1:2)、最低でも21日(ダニエル10:13)、できれば40日(ルカ4:2)あるいはそれ以上行なって(ヨシュア記1:5、詩編1:2には毎日とあります)、現代人の思考の深いところに横たわっている不信仰を洗い流す(エペソ5:26)必要があると思います。ある時期、これに取り組むことによって、みことばは霊ですから、みことばが自分の奥深くにある不信仰を洗い流してくれて、聖書のみことばで神が伝えておられる本当の意味を、すんなりと理解し、受け入れ、信じることができるようになります。この米国の脳科学者の証もそのことを説明しています。

すなわち、御子イエスを素朴に信じることによって、父のいる、神の子どもとなるのです。ハレルヤ!

「インマヌエル」、「神は私たちとともにおられる」には、神としての御子イエスが私たちとともにおられるという意味に加えて、御子イエスによって父なる神も一緒にいて下さるようになるという意味があります。それが、子である神イエスが開示した福音です。父なる神が父となれば、私たちは家族です。家族として聖書を読むと、実に驚くべき多くの事柄が開けてきます。

以下のところにも、家族としての私たちがいただける驚くべき恵みが書かれています。

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。
その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。

(ヨハネ16:23-27)