聖書で確かめる、私たちが王であること | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

 

聖書には、注意深く読むと、王や王国に関する聖句がたくさんあります。

主イエス・キリストは王の王です。聖句が3つあるうちの2つを掲げます。

私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、避難されるところのない者でありなさい。
その現れを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、
ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。

テモテ第一6:15

このところは、主イエス・キリストが現れになる時に、王の王、主の主として来られることを説明しています。

この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼らとともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。
黙示録17:14

「この者ども」とはキリストの敵のこと。小羊とは、過越の小羊としてほふられた主イエスのこと。イエス・キリストが主の主、王の王であるがゆえに、すべての敵に対して勝利することを、ひとつの預言として記しています。

主の主、王の王であられるのは、神のひとり子であられるのにこの地に降りて来られて、信じるすべての人々の罪を贖い、死からの蘇りを得させる過越の小羊として、自ら納得されて十字架に付けられたからです。愛によって、将来において自分を信じるすべての者のために自ら進んで死なれたのです。それも当時のもっとも苛烈な死刑の方法によって(御子イエスが受けられた刑罰による痛苦がどれほどのものであったかは、こちらの資料が参考になります。熱心に聖書の解説を続けておられる方によるものです)

この死の重み。そうしてそこに全能の力を働かせて、御子イエスの体を復活させて下さった父なる神の愛。これらがあって、主イエスは、天の父からも確証された主の主、王の王であられるのです。



日本語の聖書を読んでいるだけではわからない、「神の国」、「御国」も、英語訳では「神の王国」、「主イエスの王国」です。漠然とした国なのではなくて、主イエスの王権が確立された王国なのです。

御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われるように。
マタイ6:10

ここのところも英語訳聖書では、「Your Kingdom」が来ますように、「あなたの王国が来ますように」という意味で記されています。Yourが古い言葉のThyで訳されている英訳聖書もありますが、すべてが「あなたの王国」が来ますように、という意味です。

イエス様の宣教の第一声も、「天の王国」が近づいたということを言っています。漠然とした御国ではなく、主イエスの治める王国です。英語訳で確かめられます。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
マタイ3:2

「天の御国」は英語訳では「the kingdom of heaven」です。「天の王国」です。TやHが大文字になっているものが少しありますが、BibleHubで確かめられる28の英語訳聖書のうち、24までが「the kingdom of heaven」と訳しています。

残り4つは、the kingdom of the heavens、the kingdom of the heavens、the Kingdom of the Heavens、the reign of the heavensという風に「天」を複数形で記しています。しかしその国は「王国」、Kingdomです。王がいる国です。

これを書いていて気づきましたが、明治維新以降の日本語聖書の翻訳者たちは、おそらくは、天皇に敬意を表して、あからさまな言葉にもなりかねない「王がいる国」、「王国」という言葉で訳すことを避けたのではないかと推察します。
主の祈りの「御国が来ますように」、「御国が来たりますように」の部分を、ストレートに「あなたの王国が来ますように」と訳すと、おそらく日本国の何かに触れると考え、注意深くその要素を削り取って「あなたの」がない「御国」と訳したのではないでしょうか?
しかし、それによって、どのような国が来るべきなのか、イメージがあいまいになったのは…残念なことです。

英語圏の教会関係者はよく「Kingdom」という言葉を使います。これは、イエスが王である国という意味で使っています。それに対して日本の教会関係者が「主イエスの王国」という意味の表現を使うことは、あまりないように感じています。そこが改まらないといけないと考えています。来るべきものは、主イエスの王国なのですから。



そうして、イエス・キリストを主として信じている人たちは、聖書に記されている神の言葉により、信仰によって、王です。イエス・キリストが王の王であられるのは、イエスを主として信じるものが神の言葉によって「王」とされているからです。私たち王であるものの王、という意味が、王の王です。

イエスを信じる者は、イエスの十字架によっていったんは古い人として死に、イエスとともに新しい人として蘇って、神の王国、天の王国を、王の王である主イエスとともに受け継ぎます。そして、私たちは、個々の領域において王となるのです。一連の聖句がはっきりと示していることです。

彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。

黙示録5:9-10

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
第一ペテロ2:9

この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。
エペソ1:11


エペソ1で書かれている「御国を受け継ぐ」は、英語訳ではInheritanceという言葉が使われており、「遺産を相続する」、「財産を相続する」という意味です。噛み砕けば、主イエスが勝ち取ったすべてのものを相続するという意味になります。それはすなわち、主イエスとともに、主イエスの王国を相続するという意味に他なりません。

 

なお、厳密に言えば、この主イエスの王国は、霊的なものです。パウロが書いている目にみえないものです。しかし、霊的なもの、目にみえないものは、手に取って触れるもの、目に見えるものに、深く影響しています。そうでなければ、どうして私たちは祈るのでしょうか?祈るのは、神に、霊的なものに強く働いていただいて、目に見えるものを変えていただくためです。そこに御業を現していただくためです。

そういう文脈で、主イエスとともに、主イエスの王国を受け継ぐのです。神のみこころにかなう祈りによって、この地の上に、手に触ることのできる神の国を現していくのです。それは、具体的には、アブラハムの祝福という言葉で表されているものになるでしょう。アブラハムがどのように祝福されていたかは、創世記で確かめることができます。また、ダビデやソロモンが受けていた祝福も、象徴的なものとして、参考になります。信仰を育むのに役立ちます。



この関連の事柄。すなわち、受け継ぐべきものが主イエスの王国であること。主の祈りで祈られていたものが、主イエスの王国がこの地の上に来ることであったということ。主イエスは王の王であり、一人ひとりのクリスチャンが王ないし王女であるということ。
これらをはっきりと言っている聖書のみことばは、探せばたくさん出て来て掲げ切れないぐらいです。

不幸にして400年間、この一連の投稿(1本目2本目3本目)で書いた呪いが日本の教会と日本のクリスチャンにかけられていたわけですが、それは祈りに応えて下さる主なる神によって、今、急速に取り払われつつあると信じています。
その中で、主イエスを信じる者は、王であること。王として、自分が関わる領域に神の王国を確立していくことができるということ。信仰により、祈りにより、宣言により、そこに神の王国が現れるということ。イエスは王の王。自分は個々の領域を任された王および王女。


創世記にアダムに与えらた最初の根源的な祝福にもある通り、神が望んでおられるのは、人が「地を治めること」です。サタンの邪魔が入り、長らくそれができませんでしたが、イエスの十字架と血によって呪いから解放された今、それに取り組むことができるようになっていると信じています。

皆さんが主イエスの栄光の中を歩まれますように。