救いを求めても答えがない時、おそらくは、自分を愛する愛の方がまさりすぎている可能性があります。
自分を造ったのは誰ですか?
なぜ、神に求めるのですか?
神が祈りに答えてくれると知っているのならば、その相手を、一方的に恵みを引き出せるATMのように求めてだけいていいのですか?
私もこういうことに長らく気づきませんでした。
天の父も、御子イエスも、求めるものに応える用意がある神です。
しかし、神にも、喜ぶことと、喜ばないこととがあります。
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わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。
飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。
そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。
イザヤ書 58章6~8節
自分を愛する愛は、誰にもあると思います。一方で、神を愛する愛が、自分にあるかと言うと、多くの場合は訓練をしないと、神への愛が活性化しない状況にあると思います。
この世のやり方は、神への愛を考慮に入れていません。普通は、その中で生まれて大きくなるので、神への愛し方を知らずに大人になります。聖書にありますが、自分を造ったのは神です。
それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。
詩篇 139篇13~14節
自分を造って下さったのが神であることに気づくと、神が近くなります。
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その方を愛する。自分を造り、万物を造って下さった方を愛する。
イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
マルコの福音書 12章29~30節
このことができるようになると、御子イエスを通じて、救いの中にまっすぐ入っていけるようになると思います。