パウロはコリント第一1:18で、「十字架のことば」を強調しています。
十字架のことばは、滅びる人には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
コリント第一1:18
「十字架のことば」は、聖書の英語訳では、"the message of the cross"、"the word of the cross"、"the preaching of the cross"といった訳され方をしていますが、現代に近い翻訳では"the message of the cross"が多いです。すなわち「十字架のメッセージ」です。
十字架のメッセージ…。十字架が私たちに伝えるメッセージ…。イエス・キリストが私たちの身代わりとなってはりつけにされた十字架が持つメッセージ。これが「神の力」だと言うのです。ここには、大変に深い意味があると考えなければなりません。
パウロは別なところで、「キリストの十字架がむなしくならないために」と書いています。
キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
コリント第一1:17
この一節は、イエス・キリストの救いや教えについて、話したり、議論したり、宣べ伝えたりする際に、「キリストの十字架がむなしくなる」ことが、往々にしてあるということを言っています。
また、18節に、「滅びる人には愚か」とありますから、表面的には、愚かしく聞こえる時もあるわけです。
つまり、十字架のメッセージ、言い換えれば、キリストの十字架は、往々にして、すっと素通りされてしまうことがあるということです。その、素通りされてしまいがちなメッセージが、実は、「神の力」なのです。
私も、クリスチャンと名の付く者になってから、20年近く経ちますが、ここの一節が言っている内容は、なかなかよくわかりませんでした。何が「十字架のことば」なのか?何が「神の力」なのか?
◎
人が救われるためには、何かが犠牲になって、血を出さなければならないということが、ユダヤの伝統、文化、宗教的な背景にあります。人が、汚れから清められるためには、何かを犠牲にして血を出して、その血によって自分が清められなければならない。人の罪が赦されるためには、何かを犠牲にして血を出して、その血によって罪が赦される。日本には、このような、犠牲による罪の贖い(あがない)という文化がありませんから、このことがよくわかりません。
しかし、私たちの真の神は、アブラハムに現れた神ですから、ユダヤ的な伝統、文化、宗教的な背景を、大いに尊重しなければなりません。わかりにくければ、勉強をして、理解していかなければなりません。本来私たちは、「異邦人」であり、神の恵みや祝福にあずかることができない立場にある存在です。異邦人は異邦人らしく、へりくだって、謙虚に、ユダヤ的な背景を吸収していく必要があります。
何かを犠牲にする、もっともインパクトの強い教えが、アブラハムが神様から息子イサクをいけにえとして捧げなさいと言われた、創世記のエピソードです。ここはぜひとも、聖書の創世記22章をお読みになって下さい。アブラハムが百歳になって初めて得た自分の一人息子イサク。このイサクを、神は、いけにえとして捧げなさいとお命じになったのです。アブラハムはそれに対して口答えすることもなく、淡々と、神の命令に従って、イサクを捧げるべく、モリヤの山に行きます。
このくだりで、神は、いけにえを求める存在であることがわかります。犠牲を求めるのです。
いけにえとは、神に対して、自分の貴重なものを差し出す行為です。神に対して感謝の念を捧げる時にも、いけにえが用いられますが、基本的には、大変に貴重なものを神に差し出して、神の前にひれ伏すという意味があります。
そうして、この創世記22章では、アブラハムに対して、神は、たった一人の息子イサクを、それも百歳になってやっと授かった自分の跡取り息子を捧げることを、お命じになったのです。
結果的に、イサクがほふられようとしたその直前に、神は、代わりの雄羊をお与えになり、イサクが命を落とすことは避けられました(後年このイサクの血統からイエスがお生まれになります)。また、このことは、アブラハムに対する神の「試練」であったと、創世記22章1節に書かれています。
もっとも貴重なものを神に捧げる行為。それがいけにえの基本です。そのことを、この創世記22章のアブラハムのエピソードから読み取ることができます。
◎
その後、旧約聖書では、多種類のいけにえが律法として定められ、おびただしい牛や羊が捧げられています(特に列王記第一8章)。時には鳩も用いられました。また、神を礼拝するための場所、聖所や至聖所では、いけにえの雄牛から取られた血によって、聖めの儀式や罪の赦しを得るための儀式が行われていました(レビ記、へブル人への手紙)。
このような、いけにえを捧げる行為。神に対して、自分にとって大変に貴重なものをいけにえとして捧げる行為。これが、神に対する従順を表し、神を心から礼拝する姿勢を表し、神に対してへりくだる自分を表します(ローマ12:1)。それによって聖めがなされ、罪が赦されます。また、恵みや祝福があふれます。ユダヤ的な伝統には、そのことがあります。
日本人に理解しづらいのは、この「いけにえ」が、対象となる牛や羊を殺すという、大変に残虐な側面を持っているということです。しかし、そのような側面を持っているからこそ、いけにえには、大変に深い意味があるのです。
いけにえをほふる際には、刃物が用いられます。アブラハムがイサクをいけにえに捧げようとした際にも、刀によってイサクをほふろうとしました。いけにえから血を取る際にも、刃物によってほふり、傷から出てくる血を鉢に取ります。ユダヤ的な伝統では、これを行うのは祭司です。聖なる役割を負った人たちが、このことを行うのです。
いけにえにされる小羊は、ほふられる際に、わめいたり暴れたりしないそうです。自分がほふられるのをわかっているらしいです。そうして、粛々と、ほふられる自分のことを受け入れます。小羊も神の創造による被造物であり、聖なることのためにほふられるということを、被造物として理解しているのかも知れません。
そのようにして、いけにえが捧げられ、聖めのための血や、罪の贖い(あがない)のための血が取られます。
出エジプト記12章にある過越(すぎこし)の血も、そうしたいけにえの小羊から取られた血です。小羊を刃物によってほふり、傷から出た血を鉢に取り、それを二本の門柱とかもいに付ける。主の命じられた通りにそれを行う。それによって主の怒りの災いが過ぎ越すのです。
◎
聖書にはよく、いけにえが聖なるものである、血が聖なるものである、という意味のことが書かれています。なぜ、聖なるものであるのか?
それは、それを行う人が、神から言われたこと、神のことば、神が命じられたことを忠実に行うからです。神に忠実に従って、牛や羊をほふり、その血を取る時に、それは聖なるものとなります。レビ記、民数記、へブル人への手紙に、そのことが書いてあります。アブラハムがイサクをいけにえとして捧げようとした行為にも、神に対して最高度に従順であったという意味で、聖性がありました。
では、何が十字架のメッセージなのか。
十字架に付けられたイエス・キリストは、まことの神である天の父が、イエスを信じるすべての人のために捧げた、究極のいけにえです。その血は、イエスを信じるすべての人が受けることのできる、完全な罪の赦しと、完全な自由のための、究極の血です。イエスがおっしゃった「まことの飲み物」です(ヨハネ6:55)。天の父が、自分のひとりしかいない息子であるイエスを、いけにえとして、私たちに差し出して下さったのです。そうして、聖めの血、贖いの血を受けられるようにして下さいました。究極のいけにえです。究極の血です。
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
ローマ3:25
まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
へブル9:14
十字架のメッセージには、まことの神である天の父が、自分のひとり子をいけにえとして差し出して下さったという、天の父の愛があります。また、十字架のメッセージには、自らがいけにえになる定めを小羊のように従順に受け入れた、御子イエスの愛があります。