「聖霊体験」の2000年の歴史を簡単にまとめてみました(上)
聖霊2000年分の大泣き - 「聖霊体験」の2000年の歴史を簡単にまとめてみました(中)
上記の2本の続き、まとめの投稿となります。
以下は異論はあるとしても、私のキリスト教会史の理解です。おおむね正しい線がたどれているかと思います。
1. 1世紀
初代教会が立ち上がった。ペンテコステの日に聖霊のバプテスマが与えられ、異言の祈りができるようになった。パウロ書簡にある御霊の賜物も与えられるようになり、預言の賜物も備わった。これにより、聖霊は、異言と預言という2つの言語により、教会内で話ができるようになった。
また、教会運営のファクションの1つとして、預言者が「教会の礎」として与えられた。預言者は、霊的な状況(霊的な季節)の気象台としての役割を果たし、その時々において、教会が成長していく際に何に力点が置かれるべきかを判断するよすがを提供する。これらにより、初代教会は力強く成長した。使徒たちも活躍した。みことばに伴うしるしが必ず現れて、神がともに働いていることを現された。
2. 2世紀
カトリックが立ち上がった(今泉の不勉強により正教会の歴史は割愛します)。カトリックは現在、10億人超の信徒を持つ世界最大のキリスト教会派。その世界大の規模になる基盤としての教義が2世紀に定まった。すなわち、教会の中においては、異言も預言も封じた。預言者を廃した。これにより、聖霊は声を出すチャネルを失った。また、聖書主義の立場からすれば、聖伝の導入も含めてカトリックの教義には不適切がある。初代教会から見れば異端に当たると言えなくもない。しかし、教会成長の勢いはあり、現在に至る。(個人的な見解ですが、イエスの大宣教命令をもっともよく実行しているのはカトリックです)
3. 2世紀〜16世紀
モンタノス派などの預言を採り入れ、預言者を置く会派が立ち上がり、一時期は勢いを見せたが、カトリックからは異端とされ、収束させられた。トルコ・カッパドキアの洞窟など、俗社会との交わりを一切断った孤高の修行院において異言、預言を含む修道に取り組む群れもあったが、例外的な存在だった。カトリック内部ではドミニコ会、フランシスコ会、イエズス会などの修道会が立ち上がり、その内部では異言、預言を含む修道が行われていた可能性がある。すなわち、聖霊が話すファクションがそれらの修道会には備わっていた可能性がある。(そうした修道会が日本にやってきてキリシタンを増やした。キリシタンと現在のクリスチャンの信仰は同じとするのが神学者・聖書学者、聖書個人訳の偉業もある尾山令仁氏の見解)
4. 16世紀
ルターの宗教改革が起こった。これにより聖書主義が確立したが、異言も預言も復活しなかった。預言者も復活しなかった。すなわち、聖霊が話すファンクションは復活しないまま、プロテスタント教会群が形成された。
5. 1900年代初頭
アズサストリートリバイバルにより、異言が復活した。この後、ペンテコステ派が形成され、そこからカリスマ派が派生した。カリスマ派に影響されたカリスマ運動はカトリック内部でも運動主体を得た。カリスマ派により、聖霊の賜物の一つである預言の賜物による預言が復活した。
6. 1980年代〜現在
シンディ・ジェイコブスらにより、プロテスタント教会内部において預言者を立てる運動が始まった。
一部の会派では、異言、預言、預言者を採り入れる動きがある。マルコ最終章によりイエスの名による悪霊の追い出しにも取り組む。
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こちらで記しましたが、筆者は、イエス・キリストの父なる神から預言者としての召命を受けています。
それを踏まえて、昨年シンディ・ジェイコブスが預言した日本のリバイバルについて、私が預言者として受けているのは、このリバイバルによって初代教会の姿が復活するとのことです。預言としていただいたタイミングの確認という意味ではこちらと、こちら。
1900年代初頭に異言が復活し、1980年代に預言者と教会内預言が復活した後、今年、使徒の働きに記された初代教会の生き生きとした姿が復活するのです。すなわち、聖書のみことばに100%準拠した、異言もあれば預言もある、悪霊の追い出しもあり、使徒、預言者もいる教会組織が復活するのです。
先行する一部の会派(使徒的教会等)では、すでにそれらはすべて採り入れられていますが、預言者としての召命を受けている筆者が、聖霊に照らして見るならば、特に使徒的教会には霊的な欠陥が認められます。教会のトップである使徒の個人崇拝の傾向が顕著であり、それがゆえに(みことば100%準拠でないがゆえに)教会全体に霊的な盲目が認められるなどの弊害があります。霊的なカバーリングと呼ばれる閉鎖装置で教会員を外に出ないようにコントロールしたり、一般的な教会の2〜3倍を集める献金集金の仕組みも含めて健全とは言いかねる教会です。しかし本稿ではそこがテーマではないためそれはさておきます。
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初代教会復活の動きは、日本の各地で散発的に起こっているようです。
先日、日曜日の時間が空いたので、知人が通っている教会を初めて訪問しました。午前中の礼拝、昼食、午後の聖書の学びをご一緒させていただき、大変に感激しました。
そちらの教会では、初代教会と変わらない教会運営がなされています。すなわち、異言もあれば預言もある。癒しもある。悪霊の追い出しもある。賛美は霊とまことの賛美である、という風に。そして、その後の水曜日11時からの祈祷会に出席してなお驚いたのは、ペンテコステの日に初代教会に下った聖霊の火のバプテスマ。あの地鳴りを上げるような異言の祈り。大音響となって室内を満たす異言の祈り。それに取り組んでいるのです。私もゲストとして列席していましたが、みなさんの大音声の異言の祈りに刺激されて、私自身も生まれて初めてというぐらい、大きな声で異言で祈っていました。かれこれ1時間連続で。
大きな声で皆さんと一緒に異言で祈りながら、これがペンテコステの日の初代教会の異言の祈りの再現なんだろうなという思いが強く兆していました。そして、ひとつ前の投稿で、異言も預言も奪われて、2000年にわたってことばを出せなくなった聖霊の強い悲しみについて触れましたが、これだけ大音響の異言の祈りが祈られていれば、聖霊としては、この教会を大いに祝福し、大いに愛して下さるだろう。また、イエス様もこの教会に強く働かれるだろう。そうであって当然だという思いも抱きました。
事実、日曜日に出席した際には、その教会全体において、イエス・キリストが、目には見えないですが、働かれておられる姿をありありと感じとることができました。イエスがそこに満ちている感じです。これは賛美礼拝でよく現れる主の臨在とは異なる、非常に暖かい感じの、かつやや重たい感じの特別な空気という風でした。また、牧師先生の説教では、私は生まれて初めて、教会の説教メッセージで嗚咽を上げて泣くという経験をしました。何度も泣きました。イエス様がそこにいてメッセージをしているかのように、その時の私の状況にどんぴしゃのことばが牧師先生の口から何度も出てきたからです。
また、その教会では、奇跡が起こることをごくごく日常的なこととして受け止めています。これは、聖書のみことばを100%遵守する教会であるため、マルコ最終章で記されているみことばに伴うしるしが普通に現れる状況になっているからだと理解しました。
このようにしてその教会では、初代教会の生き生きとした姿を実際にこの目で見ることができました。私はその教会で自宅に帰ったかのようなくつろぎを得ることができました。みなさんとは初対面であったにもかかわらず、何人かの方は私のブログの読者であったということもあったのですが、旧知の間柄のような親密さを感じました。そこには、イエス様の名によってふたりでも三人でも集まる場には、必ずいらっしゃるとおっしゃったイエス様が確実にいらっしゃいました。また、奇跡が起こる前提となるイエス様の力が濃密にあふれている感がありました。ハレルヤー!
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このような初代教会が現在日本で復活しつつあると考えます。
なぜ、初代教会が日本で復活するのか?
それは、主が、この日本を愛しておられるからです。
なぜ、日本を愛しておられるのか?
それは、日本には400年前に、主を愛したキリシタンたちが数百万人存在し、うち最大で100万人が殉教したからです。(この数は日本キリスト教史研究家ケン・ジョセフJr氏による)
そのキリシタンの末が、いまの日本には、数千万人生きているのです。
その数千万人が、初代教会の熱気にあてられて続々とクリスチャンになっていく。というのがこれからのシナリオです。
John McTarnaghan