何も分からなかった頃 | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

 


 

今でこそインターネットの上に、天の父からやれと言われて看板を掲げた、ジーザスどこでも教会、という教会を運営して、多少のメッセージを出させていただいていますが、2013年、2014年ぐらいまでは、何のよすがもなく、教会に通うだけの、打ちひしがれたクリスチャンでした。

 

 

今は、どこに行けばどういう先生がいらっしゃるか、どういう教えが行われているか、米国なども含めて、見取り図のようなものを持っています。しかしあの頃は、ネットで検索しても、私の深刻だったジストニアの病の聖書的な癒しの指針を与えて下さる先生が、どこに行けばいらっしゃるのか。断食の施設(キリスト教系)に行けばいいのか。どこにこの種の深刻な霊的な課題について情報交換ができる兄弟姉妹や牧師先生がいるのか。皆目見当がつきませんでした。完全に孤立したクリスチャンでした。mixiのクリスチャン・コミュニティに行っても、会派や教会の批判ばかりが目に付いたりとか。

悪霊の追い出しについても、どこにも情報がなく、仕方がないので、一人で調べて、縁をたどって、米国のミニスターにやってもらったり。悪霊の追い出しについて経験した内容を、多少は役立つだろうと考えて、クリスチャンブログで書いたり(実はこれを読んで、参考にしていた兄弟姉妹がかなりいたことが、数年後にわかりました)。

 

クリスチャンと呼ばれる存在になって、日曜日は教会に通う、ある程度のまじめさはありました。しかし、今から振り返ると、私にとって必要だった、聖霊のバプテスマを中心とする、聖霊との交わり方、聖霊による歩みの中でイエス・キリストの弟子に変えられていくことを、ゼロから指導してくれる環境は得られませんでした。

 

地域の各個教会は、パウロ書簡にある、イエス・キリストの体を構成する「器官」であり、それぞれがそれぞれとしての役割を果たしていて、大変に尊いものです。以前は考えが浅はかで、自分勝手な尺度を作り、どの教会はどう、あの教会はどう、という具合に、各個教会を評価することを、おこがましくも行なっていましたが、今では悔い改めています。主イエス・キリストにある教会は、どのような教会も尊い、イエス・キリストの体一つの器官としての役割を果たしています。最初に10年通った教会では、聖書のみことばを叩き込まれました。ケネス・ヘーゲンに根ざす、みことばに関するスパルタ式の指導を受けました。(とは言うものの、聖霊に関する霊的な指導はなされていませんでした)

その後5年通った教会では、教会の中で兄弟姉妹が愛し合うことの良さを教わりました。

そう言う具合に、どの教会でも、一人の人間の個性がそれぞれ異なるように、学べることがあります。

 

一方で、聖霊に導かれて、どんどん自分に割り当てられた天の父のご計画の中に入っていくような人の場合は、どうしても各個教会の枠の中に入りづらいと言いますか、長く、教会の中で居心地の悪い時期を過ごすことになりがちなように思います。

それも多くの場合は、その人のプライドとか、キャラクターの中の手に負えない部分と相まって教会に居づらくなっているのですが、そこも含めて、その人は、神様の中にどっぷり入っていく中で、試練を受け、鍛えられ、聖霊によって変えられていくという経験を経ないといけません。

 

 

ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。

神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。

神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない。

ヨブ記5章

 

そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

ヘブル12章

 

ここのところでの霊的な指導は、その人は、もがくことになるでしょうけれども、天の父も、御子イエスも、聖霊も付いていて下さいますから、必ず、最良の先生が見つかります。あるいは、場合によっては、イエス・キリストご自身が直接的に先生として立ち現れます。

 

そのようにして変えられていくのです。

 

 

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。"

コリント第二 3章18節

 

すると各個教会がどこであるか、自分を指導する先生が誰であるか、ということは、相対的にあまり重要ではなく、イエス・キリストに堅く結びつき、聖書の教えを尊んで守り、聖霊に導かれ、イエス・キリストと同じことをする…というところに行くと思います。イエス・キリストの弟子になるわけです。

 

つまるところ、私たちの一挙手一投足はイエス・キリストのものであり、頭の毛一本も天の父に覚えられているわけですから、そこに向かってずんずん進んでいけば、自ずと教会のこともわかるようになり、自ずと霊的な指導も主から得られるようになると思います。

 

2013年2014年頃には何もわからなかった私ですが、主が、私の人生に介入されてこられたことによって、多少は理解ができるようになりました。

感謝なことです。

 

御名を賛美します。

 

アーメン