夜のサービスエリアからバッグが戻ってきた奇跡 | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

奇跡は、それに遭遇した本人にとっては、決定的なインパクトを持っていて、「あああ!ここに主がいらっしゃる!!」という強烈な印象を残すものだと思います。ここの投稿にある通りですね。一人で経験する場合もあれば、何人かで経験する場合もあるのでしょうけれども。

 

Nick Garrod

 

◼︎アルコール断ちとセットのコーヒー断ち

 

私は、ある時、主から「コーヒーをやめなさい」と言われました。これは、経済的な祝福を得るのに、アルコールに加えて、コーヒーをやめないと祝福が与えられないから、だからやめなさい、というご意図でした。普通の方なら、コーヒーをやめる必要はないのでしょうけれども、私の場合は、ほとんどアルコール依存だったので、アルコールを断つのと平行して、常習性の強いコーヒーも断つことが、アルコール依存から完全に抜け出すために必要だと、主がお考えになったのでしょう。

 

それを言われた時には、すぐに従いましたが、まもなくして、1日1杯ならいいだろうとか、仕事で誰かと打ち合わせをする際にはカフェでコーヒーを頼んでも大丈夫だろうとか、どんどん規律をゆるめるのですね。これで、コーヒーをやめてるんだか、やめてないんだか、わからなくなる。そういう状況が続いていました。

 

結局、アルコールを断ち、コーヒーを断つことでいただけることになっている経済の祝福は遠くにあるまま、日が経っていました。

 

◼︎仕事に不可欠なもの一式が入ったバッグをなくす

 

ある時、大阪で用事があって、あの時は東京から大阪への往きがジェットスターで成田→関空。帰りが大阪から東京へ初めての夜行バスという組み合わせでした。

 

名古屋近辺のサービスエリアで休憩になった時、夜の10時頃、仕事に必要な色々なものや大型のMacBook Proが入った仕事用バッグ。それをバスの自分の座席に置いておかずに、持って外に出ました。売店で、コンビニでよく売っているレギュラーコーヒーが置いてあって、うまそうだな、飲もうかな、やめようかな、今日は特別だからいいか、という気になって、少し後ろめたい感じもありながら、買うことにしました。レジの前に立って、バッグを床に置いて、コーヒーをもらって、お金を払って出ました。

 

バスに戻り、走り始めてから20分ぐらい経って、仕事の黒バッグがないことに気づきました。うわああと血の気が引きました。そのバッグには仕事用のMacが入ってたのですが、それがないと東京に帰ってから仕事ができません。仮にサービスエリアで盗まれたとなると、エラいことになります。仕事の何年分かのファイル一式もハードディスクの中に入っています。会社の印鑑なども中に入っていました(自分の会社を経営しているので)。それよりも、どこに置いたか全然記憶がありません。…と思って振り返ると、神様に、飲まないと誓ったコーヒーを買った、そのことががあああんと迫ってきました。そうか、コーヒーを買ってしまったからよくなかったんだ。神様との約束を破ったから、こんなことになってしまったんだ…と暗澹たる気持ちになりました。

 

◼︎天から降ってきたテキストメッセージ

 

いずれにしても最善を尽くすしかありません。東京に帰ったらすぐにNEXCOに連絡をして遺失物を探してもらって、見つかったら、私の場合は免許を持っていないので、新幹線でいったん大阪に戻って、それからまた同じ時刻に出るバスに乗って、同じサービスエリアで休憩時に降りて受け取ればよい、などと算段していました。しかし、なくなりはしまいか、気が気ではありません。

 

走り出してから1時間ぐらい経って、暗くなっている車内で、私のスマホの画面が突然明るくなり、テキストメッセージの「黒いバッグをサービスエリアにお忘れにはなりませんでしたか?」という文字列が浮かびました。

 

この文字列が、天から降ってきた神のメッセージのように映りました。

 

うわあああああ、ほんとか!すごい!!神様すごい!!!奇跡だ!!!

 

客観的に見れば、単に忘れ物のバッグが届けられて、担当者から知らせが来ただけなのですが、本人にとっては想像できない展開であり、「これこそが奇跡だ!」という刻印が焼き付けられたのです。

 

Malte Jordan

 

テキストメッセージを開けてみると、サービスエリアの警備員の方からでした。テキストを何往復かやりとりして、次のことがわかりました。警備員さんがバッグの中を確かめると名刺入れがあったので、それを見たら、持ち主だと思われる私の名刺が多く入っていたので、その携帯電話番号にテキストメッセージをくれたとのこと。バッグはコーヒーを買った店のレジのところに忘れていたとのこと。どなたかが親切に忘れ物として警備事務所に届けてくれたとのこと。NEXCOの遺失物取扱いの決まりだからということで、翌日の宅配便で私の自宅に送ってくれることになったのです。

 

もう、ありがたいの何の。主のご厚意がありがたすぎて、言葉になりませんでした。奇跡を経験したよ!という多幸感と脱力感が体中に満ちていました。

 

これによって主が示されたのは、今回コーヒーを飲まない約束を破ったことは大目に見る。けれども、次回からは気を抜いて約束を反故にしないように。でないと良くないことが起こる。そういう警告だと思いました。

 

◼︎忘れないように書く

 

これに懲りて、コーヒーを飲まなくなったわけですが…。それで完全にコーヒーから縁が切れたかと言うと、最近また気を許すようになって…。

 

その最近のコーヒーぶり返しについても、改めて主からの警告がありまして、襟を正して、コーヒーを断つことにした次第です。忘れないように、このブログに書いておきます。

 

以前の私には、ややちゃらんぽらんなところがありました。まだ、100%自分を主に捧げきっているという感じではありませんでした。しかし、その後…とは言っても、特にこの3ヶ月ぐらいですが、自分のクリスチャンライフでは大変に大きなことが立て続けに起こって、100%自分を主に捧げきって当然!という状況が生まれてきました。

 

自分が向き合っている、ある種の「霊的な覆い」(Confinementという英語で何度も示されました)を完全に粉砕し、完璧に打ち破るには、イエス様がご自身の命を捧げられたように、私も何か犠牲にしなければならない。そのことが当然のことのように納得されて、コーヒーも、アルコールも、完全に断つことを、ごく普通のことのように決意し、それができて今に至っています。断つこと自体はすでに慣れているので、また、聖霊様の助けもいただけるので、何も難しくはないのですが。

 

私にとっては、コーヒーを断ち、アルコールを断つことが、「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」として、自分のからだを主に捧げることと同義です。イエス様のご自身の命をお捧げになったことから比べれば、まったく小さな事柄ですが、自分ヒストリー的には大きいです。

 

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)