以下では、言葉にその人の信仰が乗る現象を発見した経緯について書いています。今では確信しています。その人の信仰は、書かれた言葉や、演奏・録音された歌の言葉に乗せることができ、遠くにいる相手に伝えることができます。時間を超えて伝わります。聖書の言葉が生きているのも、聖書執筆者(詰まるところは聖霊であり、イエス・キリストです)の信仰が聖書のみことばに乗っているからだと考えることができます。

 

ある人のブログに、強い信仰を感じるのも、その人の信仰がその書かれた文字に乗っているからです。同じ言葉(文字列)を使っていても、書いた人の信仰によって、読む人が受け取るものも違うのです。これは、言葉が霊であるから(ヨハネ6:63)、ということで説明できると思います。

 

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■賛美リードによって臨在の質感が違う

最近発見した事柄があります。スポンテニアス・ワーシップにおいて、同じ曲、同じ歌詞を用いていても、ジェン・ジョンソンとアマンダ・クックでは、現れる主の臨在の質感が違うのですが、その理由が何かがわかりました。

 

賛美礼拝ないしスポンテニアス・ワーシップでは、一般的な事柄として、毎回毎回、現れる主の臨在のテクスチャーが異なるということがあります。雲の形がひとつとして同じ形がないように、礼拝ごとの主の臨在の現れ、それがもたらす経験の感覚的な内容は、おもしろいように異なります。

 

異なるとは言っても、そばとうどんほど異質なものの違いということではなく、同じそばでも、産地の違い、打ち方の違い、茹で方の違い、出しの違いというような比喩で表される違いです。臨在のテクスチャーの違いと言ってよいでしょう。

もう少し詳しく見てみます。

 

スポンテニアス・ワーシップについて、もっとわかりやすく説明をしようと思って、キリスト教界のベスト10に入ると思われる名曲の”What a Beautiful Name”(詞曲ヒルソング)のジェン・ジョンソンと、アマンダ・クックと、カリー・ヘイリゲンタル(いずれもベテルチャーチ)との違いを聴き分けたり、他のアーティストによる礼拝系の動画と聴き分けたりしていました。それで発見したのは、ジェン・ジョンソンがリードする賛美礼拝の”What a Beautiful Name”がもたらす臨在のテクスチャーと、アマンダ・クックがリードする賛美礼拝の”What a Beautiful Name”がもたらす臨在のテクスチャーが違うということです。


それだけでなく、何度聴いても、ジェン・ジョンソンの賛美リードによる”What a Beautiful Name”では、特定のところで内なる聖霊様がいつも同じように反応なさり、同じような臨在の質感を感じるのに対して、何度聴いても、アマンダ・クックの賛美リードによる”What a Beautiful Name”では、別な箇所で別な形で聖霊様が反応なさるということです。

賛美リードの人の違いによって、スポンテニアス・ワーシップの主の臨在の現れが違うということは、所属教会で2年間礼拝賛美に参列して、大阪の本部と東京の教会とで、教会の大きさも賛美リードを務める方も違うなかで、ああそういうものなのだなと、自然に理解できました。(実は、主が好きな曲がある、ということも、最近わかってきました)

 

どちらが優れているといったことではなくて、シェフが違えば料理の味付けが違うように、賛美リードの方によって、主の臨在のテクスチャ−は違います。どちらかと言えば、パワフルなテクスチャーが現れやすい方もいらっしゃれば、どちらかと言えば、シルキーなテクスチャーが現れやすい賛美リードの方もいらっしゃいます。個性が違うように、その賛美リードの方の時に現れる主の臨在が与える感覚は違うのですね。

それを踏まえて、Youtubeの録画で、ベテルチャーチに所属するジェン・ジョンソン(企業の役職で言えばヴァイス・プレジデント)と、アマンダ・クック(同じくシニア・ダイレクター)の”What a Beautiful Name”で現れる臨在の違いを比較して、何度も何度も確かめてみると、次のようなことが浮かび上がってきました。

■言葉は同じでも、それぞれの人の信仰が乗ると、現れが違う


「同じ言葉」を使っていても、その人が信じている信仰の内容によって、現れるものが違うのではないか、ということです。

非常に興味深いことです。「言葉」は同じです。文字列として見れば。しかし、そこに信仰が乗っかると、現れるものが違ってくるらしいのです。

神の言葉は生きています。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4:12)

その生きている言葉の、生きた様は、それを口から言葉に出して言う人の信仰を乗せて何かを現し、その何かには無限のバリエーションがあるのでしょう。

 

「イエス様のお名前によって祝福します!」と言った時、その祝福の現れ方には、思わず踊り出したくなるような祝福もあれば、静かにじわーんと浸りたくなる祝福もあるということですね。

言葉に信仰を乗せるとは、言葉に、霊的な力を乗せることだ、と言うこともできるでしょう。言葉は霊でもあります。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(ヨハネ6:63)

言葉を口にして、音にして、世界に放つ時、そこにはその人の信仰がそのまま反映された、霊の力が乗っかって、外部に出ていくと考えることができます。

 

まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
(マルコ11:23)


そのために、ジェン・ジョンソンがもたらす臨在と、アマンダ・クックがもたらす臨在とが違う、ということが起こるわけですね。そういうことなのだと理解しました。

それぞれが、スポンテニアス・ワーシップの考え方に違いがあり、聖書的な信仰の何にフォーカスするかが違うわけです。これは、ある人はマリアのような信仰を持ち、ある人はペテロのような信仰を持つ、というような違いを指しています。

従って、同じ言葉を使っても、もたらされるものは違うのです。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネ14:12)

このイエス様の預言についても、「わたしの行なうわざ」は、信仰の違いを反映させて、人によってまったく異っていると思います。その方が自然です。

 

また、「それよりもさらに大きなわざ」とおっしゃっているその「大きなわざ」を支える信仰も、人によって、あるいは、時代によっても大きく異なってくるのではないないかと考えています。

 

これから来ると預言されている巨大なリバイバル(2017年10月26日追記。もう来ています)の中で、ひょっとすると、過去にはなかったような大きな信仰が立ち上がり、大きなわざが、ごくごく普通のことのように行われるようになるのではないかという予感があります。


そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。(マルコ16:20)

 

イエス様がいらっしゃった時の福音は、ペテロに例をみる、みことばに伴うしるしがありました。あの頃の信仰が、当時の人の言葉に乗って、しるしを現したのだと思います。同じようなことが、同じ信仰を持つことができれば、同じように起こります。イエス様の預言は、さらにもっと大きなことが起こるということを、はっきりと示しておられます。

 

そのようにして何が回復されるのかと言うと、創世記でサタンがアダムやエバから奪った、神の言葉の本来的な働き。その神の言葉を使う人が、神に似せて創られたということ。神の国そのもの。

 

Photo courtesy of barnyz