パウロは、教会員各自が御霊の賜物を色々に用いて、教会内の互いの学習のために活用したり、教会の外の人への働きかけに使ったりすることを奨励していました。これは、教会の成長のためにはその方がよいということでしょう。

愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい
異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。
ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。
異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。(第1コリント14:1-4)


聖霊は三位一体の一つの位格の神であらせられるので、人間ではできないことができます。
 

ペテロが漁師の出でありながら、使徒行伝で立派な説教をしたり、すばらしい書簡を残しているのは、聖霊により、彼が持っていた知性などのポテンシャルがフルに引き出されたということと、啓示や知恵の言葉などにより正しい選択ができるようになって、結果として、今でいう成功者のライフスタイルができるようになったからではないかと考えられます。短く言えば、聖霊に助けられる生活は、普通の人の何倍もの成果を出せる可能性があるということです。ただし、神の国のためにそれを用いた時、ということでしょうけれども。

■宮沢賢治に預言の賜物があったなら

この聖霊の賜物=御霊の賜物の1つである預言も、人間が理性でその中身を想像するよりも、包含しているものはきわめて大きいようです。私はまだ学び始めたばかりで、とば口を覗いた程度。しかし、そのすごさというのは、おぼろげながら把握しています。元々、現代詩を書いていた時期があり、言葉については人一倍考えてきました
預言は、第一級の詩人の出す言葉のパワーが1だとすると、10ぐらいは普通にある感じです。日本の詩人で天才と言えば、すぐに宮沢賢治が思い浮かびますが、彼の残された詩の言葉のパワーが1であるならば、仮に彼に預言の賜物があったとすれば、ゆうに30ぐらいになると思います。

御霊の賜物である預言とはそのようにすごいものなので、これを教会員が駆使できるようになると、「徳を高め、勧めをなし、慰めを与える」という形で、よい働きをします。

 

なお、お断りしておくと、パウロ書簡にある御霊の賜物の1つである預言の賜物と、「預言者であること」とはまったく存在平面の異なる話です。後者はまだ私はほとんどわかりませんので、いつか把握したらお伝えします。ここでは前者の預言の賜物のみ扱います。

また、預言の霊というのもあり、これもまた預言の賜物ととは存在平面が違います。これもまた別な機会に。


■パウロの当時は預言がノーマルに使われていた

以下の聖句を読むと、預言で話すことが、教会の内部の言葉の出し方として、比較的普通のものであったことが窺われます。人間的な知性で語るのと並行して、預言でもって何かのメッセージを伝え合うということが行われていたのでしょう。預言は、聖霊様から来る言葉ですから、人間的な理性が繰り出す言葉よりも、含蓄があり、愛に富み、知恵があり、先々のことを考慮に入れ、生産的で、意味深かったでしょう。

私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています
ですから、兄弟たち。私があなたがたのところへ行って異言を話すとしても、黙示や知識や預言や教えなどによって話さないなら、あなたがたに何の益となるでしょう。(第1コリント14:5-6)


ここでパウロは教会の徳を高めるのに預言が有効だということを言っているわけですが、このことはすんなり理解できるようで、謎が残ります。ローマ書を初めとして、パウロ書簡には謎な聖句がたくさんあるわけですが、その謎な部分は多くの場合、霊的な事柄を取り扱っています。

御霊のことは御霊によってわきまえると彼自身が書いています。彼の霊に関する聖句は、聖霊に依り頼むことで理解できるのだと思います。教会の徳を高めるのに預言が有効だとは、教会内の説教に預言を採り入れることで、教会員の成長が促されるということだろうと推察されます。

以下の聖句も、預言が祈りと同格で扱われていますから、教会の中では普通に使われていたと推測できます。

男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。
しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。(第1コリント11:4-5)


これらのことから、預言を、現代ではすたれてしまったものという風にきめるつけることはせずに、聖霊のバプテスマを受けて、預言にも積極的に取り組むべきだと言うことが言えると思います。

預言が、コントロールできない言葉の話し方だという理解があるとすれば、それは誤解です。聖霊を受けて預言をしている最中も、やっている人は普通に冷静にしていますし、言葉を止めることも、再開することも、自分の意思で普通にできます。
日本の巫女や口寄せから来る先入観が、預言の捉え方を歪んだものにしているとすれば、それは悲しいことです。聖霊様は、イエス様がわれわれに贈って下さったかけがえのない、聖なる内住の神です。その聖霊様からいただく預言は、日本のそうしたものと比較すべきではありません。預言は聖い言葉です。

■異言が先にあって、そこから預言が出てくる

個人的に把握しているのは、預言の賜物による預言は、聖霊様が満ちることで、天から降ってくる感じの言葉です。この「感じ」は、個人によって違うと思います。また、預言が出る時のコンディションも、人によってかなり違うと思います。私の場合は、異言で聖霊様が活性化している状況で、何かのきっかけがあると、預言がとつとつと出てくるという感じです。忘れないように、すぐにスマホでメモするなりして記録しておきます。

異言は預言の母体なのかも知れません。別な人からも、異言で祈っていて、異言自体は人の理性が理解できない言葉ですが、そこに理性で理解できる言葉が浮かんできて、それを口にすると、それがすなわち預言だ、という説明を聞いたことがあります。異言が先にあって、そこから預言が出てくる感じです。なお、異言を経ないで、預言がいきなり出てくる人もいると思います。

スポンテニアス・ワーシップの”What A Beautiful Name”でジェン・ジョンソンが預言を出しているのも、預言の賜物による預言のように見受けます。賛美の中で主の臨在が強くなってきて、内からも聖霊が満ちて、その中で、1つのきっかけがあると預言があふれて出てくる。そういう感じなのだと思います。

預言の賜物は、ノンクリスチャンの方に対する伝道に活用することもできるそうです。対話のきっかけづくりに有効です。相手の何かを預言の賜物により知って、それを言ってあげる。すると相手がびっくりする、ないし、喜ぶ。それできっかけをつかんで、聖書の話、イエス様の話、聖霊の話をする、という段取りです。

預言の賜物は教会の徳を高めるものですので、あまり「自分のために」使うものでもないような気がします。どうでしょうか。
 

Photo courtesy of Artizone