ウィリアム・カーロス・ウィリアムズという米国の詩人の「パターソン」(Paterson)という作品には、宣言があり、新聞記事の抜き書きがあり、会話の記録があり、警句があります。叙事詩の崇高なセクションがあり、抒情詩の数行が何セットもあります。一作品で単行本一冊の分量がある詩です。

刊行された当時は、そのアバンギャルドさが、ものすごく新鮮だったと思いますが、クラブミュージックのサンプリング、少し前にIT業界でマッシュアップと言っていたものが、ごく当たり前のものとなっている現在では、新奇性のない詩形式かも知れません。

このブログは紆余曲折ありましたが、私にとっては、パターソンのようなものです。

パターソンを大学の卒業論文の題材として選び、書いていた最中に、「言葉とは何か?」という大命題を考え始め、卒論を書いていくなかでその解答を見ようとしていました。

当時、頭にあったのが、聖書のヨハネの福音書にある「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(新改訳による)です。この頃は確か文語訳を持っていて、あの崇高な訳文により、「ここで言っている言(ことば)とは何なのか?」と考えていました。

 

太初に言ありき、言は神と偕にありき、言は神なりき。(文語訳)

当時はヘタクソながら現代詩も書いていて、自分は詩人の端くれだという意識も持っていました。言葉。言葉。言葉…。

この頃の「言葉とは何か?」という一大命題は、今ではスラスラと、「言葉の大元は、聖書のみことばであり、聖書のみことばの大元はイエス様です」と答えることができます。

また、「言葉は霊でもあります。霊である言葉の一端は、賛美礼拝の時に現れる、主の臨在によって感じ取ることができます」と普通に言うこともできます。

この卒論を書いていた当時、スポンテニアス・ワーシップ式の賛美礼拝の中で、主の臨在を毎回経験していたならば、卒論を書くためにウンウン唸ることもなかったでしょう。パターソンに盛られた言葉と、聖書の言葉との差異をスラスラ論じることもできたでしょうし、詩人の役割について、聖書の預言者を引き合いに出しながら、とうとうと論じることもできたでしょう(^o^)

すべては賛美と一体化した礼拝が鍵です。バッハの頃ならば、毎週の礼拝で演奏された教会カンタータ。20分から30分ぐらいの長さ。こちらでも書きましたけど、聖霊様のアクティベートには15分程度かかりますから、それを考え合わせると、賛美礼拝の全体の長さは少なくとも20分、できれば30分、理想を言うなら40分から60分です。

そうした、たっぷりとした時間の賛美礼拝があれば、主の臨在にゆったりと浸ることもでき、聖霊様の油注ぎ(上から来る)、聖霊様の満たし(内から満ちる)も親しく経験できるものとなって、「言葉とは何か?」を簡単に説明することができたでしょう。言葉の本質を、聖霊様が教えてくれるのです。

 

ウィキペディアの教会カンタータの説明を読むと、ほとんど、スポンテニアス・ワーシップの中身の解説を読んでいるような感覚を覚えます。バッハ時代にスポンテニアス・ワーシップに限りなく近い賛美礼拝があった、と言うことができるでしょう。

Photo courtesy of Rachel Titiriga