ちなみにいうと、僕は、この映画に関する、ドキュメントを観ていないし、読んでもいない。
この文章は、きっとコッポラはこうおもった・・・のであろうという妄想である。僕が、映画を見て思った空想。
きっとコッポラは、あのジャングルを見て妄想した。
一気に焼き払ったら美しいだろうな
あの波のスレスレに、空軍のヘリが、飛んできたら美しいだろうな。
響くのは、ワーグナーだ。ワルキューレの騎行。
サーフィンをやろう。爆弾の水柱が立つ横でだ。
ヘリから、ライフルでベトコンをぶち殺してやるのもいいなあ。ナパームの火炎の横をヘリが、飛び・・ドアーズだ・・。
なんてジエンドな光景だ。
そう妄想した瞬間、この映画の他のすべてがどうでもよくなってしまった。
ジャングルのなかで、コッポラが、たぐいまれなる知性と感性を持った男が、狂った。
狂った美しい妄想を、そのままスクリーンを再現せんがために、アメリカ映画いちの実力者が、そのすべてを叩き込んだ。
キルゴア中尉、彼こそがあの映画のコッポラそのものだった。理屈を超えた破壊と殺りくの美に酔う男。映画史上に残る名ゼリフ。
「ベトコンにサーフィンがわかるか!!」(ちなみにこれは吹き替え版のセリフ。ナイスな翻訳、声を当てた青野武さんもとてもグーだ)
人間なんてしょせん、本能を理性で抑えつけている獣である。破壊と殺りくが大好きなのだ。それどころか、それに美しさを感じてしまう。地球史上最低の生き物だ。
なにがエコだ。ここまで壊しておきながら、いまさらなにが守ろう・・だ。
レイプした女性に、すいません・・と謝っているようなもんだ。
この映画が、後半にいくに従って、混迷していき、最後のマーロンブランドが、木偶の坊と化しているのは、コッポラがそこに美を感じていないからだ。
感じていないものを、作りだそうとしてもだめである。
もし僕が、何百年か後に、映画とは、なんですかと問われたとしたら、この映画の、ファーストシーンから、ベトナム襲撃のシーンをみせる。
「これが映画です。美しいでしよう」
「そして、これが人間です。破壊と殺りくに美を感じてしまう獣です。」