清里開拓の父ポール・ラッシュを知っていますか? | 親身な霊視でお悩みを必ず解決します

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みなさま おはようございます。

 

9月4日 清里にある清泉寮(せいせんりょう)からお供のみなさんと一緒に元気に帰ってきました。

 

東京に戻ってきましたが 聖ヨハネ保育園に引き続き 清泉寮についてお届けしたいと思います。

 

Q:

あなたはポール・ラッシュ(Paul Rusch)という一人のアメリカ人を知っていますか?

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A:

私は清泉寮を訪れるまで その存在を知りませんでした。

立教学院卒業生のかたやアメリカンフットボールの選手及び関係者のかたであれば ご存知かもしれませんね。

 

ポール・ラッシュ及び清泉寮について正しいことをお伝えさせていただくのに関係書籍や冊子から一部引用をさせていただきます。

ポール・ラッシュ100の言葉

清里の父 ポール・ラッシュ伝

清里に使(つかい)して ポール・ラッシュが書き遺した「奇跡の軌跡」

まちミューガイドブック 北杜市高根町編「清里開拓の父」ポール・ラッシュものがたり

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82歳の人生(1897〜1979年)の大半を清里の開拓と日本の再生にかけた生涯でした。

 

清泉寮新館の近くに ポール・ラッシュ記念館はあり清里の開拓とその功績を知ることができます。

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記念館の中には 日本アメリカンフットボールの殿堂コーナーがあり 戦前の日本にアメリカンフットボールを紹介普及させた功績を知ることができます。

 

記念館の奥には 晩年亡くなるまで生活された住居が公開されています。撮影は住居スペースを含めて可能です(フラッシュの使用は不可)。

 

外観部分

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当時の生活をしていた様子を見ることができます。 

 

住居「居間」

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書斎

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寝室には還暦を祝う赤いチャンチャンコも飾ってあります。

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ポール・ラッシュ(以下ポールさん)が日本に来たきっかけは関東大震災で破壊された東京・横浜・YMCA(キリスト教会青年会)会館再建のためでした。大正14年(1925年)のことです。

 

はじめから決して聖人君子ではありませんでした。また 最初から明確な使命感を持って困難に立ち向かった訳でもありませんでした。

 

「神の教え」を日本に広める などという崇高な理想があったわけではなく どこでもよいから旅がしたいという「いい加減な」目的しか持っていなかったそうです。

 

赴任先がキリスト教の聖地であるエルサレムであろうが どこであろうがよかったそうです。

 

もしも関東大震災で大きな打撃を受けなければ日本に来なかったのかもしれません。

偶然のようでこの時すでに「神様から人生を導かれていた」のかもしれません。

 

ポールさんは アメリカ合衆国インディアナ州フェアマウントに生まれ(7人兄弟の長男) その後 ケンタッキー州ルイビルに移り住みました。

 

大正10年(1921年)にルイビル市立大学商学部を卒業後 スペンセリン商業学校 ニューヨーク・ライブラリースクール等で学び 将来はホテル経営を目指していたそうです。

 

来日から一年後の大正15年(1926年) YMCA会館の再建を終えてそろそろ帰国を考えていました。ニューヨークのボウマン・ビルトモア・ホテルは採用を約束してくれていたからです。実際にはこの年の9月に 帰国の船便を予約していました。

 

ですので まさか自分が宣教師になり 日本にとどまるなんて夢にも思っていなかったようで 決して敬虔なクリスチャンではなかったことは 自他共に認めていたそうです。

 

来日当初 横浜に着いた途端に夜の町に繰り出して遊んだと言われています。また 大の酒好き 煙草好きであり ほぼ毎日のようにバーボンを飲み煙草をふかしていたそうです。

人間くさい部分になぜかほっとします。

 

ポールさんの生き方は 聖公会の規則 アメリカの伝統 日本の伝統などにとらわれることなく また 常に何か目的や使命感を持ってそれに向かって突き進むのではなく まさに自然体で 目の前に現われる様々な困難に その時々に精一杯闘い続けるというものでした。

 

一生独身を貫きましたが アメリカには結婚を予定していた婚約者がいました。のちにこの女性は弟さんの妻となっています。

 

ポールさんは語っています「私がこれをやっているのは 役に立つキリスト教的民主主義を日本に実現させたいからである。これを証明するために 私は自分の生涯を犠牲にした。兄弟姉妹は ケンタッキーで気ままにバーボンを飲んでいるのにバカだと思うかもしれない。しかし私は辞めるつもりはない。人生の一番良い時期を日本のために捧げたのだから」。

 

ポールさんの身長は160㎝強で アメリカ人としては小柄な体型でした。当時の日本人の中でも大柄なほうではなく 際立って目立つ存在でもありませんでした。

なんだか親しみが湧いてくるのは私だけでしょうか。

 

ポールさんは生涯で様々な分野 政財界の人たちとの交流がありました。

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ポールさんの人生に大きな影響を与えた人の中に 立教大学理事長を務めていたジョン・マキム主教(以下マキム主教)とノーマン・ビンステッド司祭(以下ビンステッド司祭)がいます。

 

この二人から「日本に残ってはどうか?」立教大学で教師になることを説得されます。

 

ビンステッド司祭は「われわれ聖公会の伝道は今多くの課題を抱えている。教会の会計を助けてくれる人がいないし 立教大では経済学を教える教師が不足している。協力者を探していたんだ。幸い 君はビジネスマンとして十分な経験を積んでいる。そして 経営の才能にも優れている。YMCAの仕事が終わったのであれば どうか立教大に教育宣教師として残ってもらえないか。身分についても教授として十分な保証を与えるつもりだ」。

この説得は 自宅へ夕食に招待するなど手段を尽くして何度も繰り返されたそうです。

 

ポールさんは「1年くらい無駄にしても構わない。日本人は嫌いじゃないし 日本人も私を気に入ってくれているようだ」という思いで教師生活へ入ったのです。

 

立教大学で多くの学生との交流がなければ 清泉寮も存在しなかったと思いますし アメリカンフットボールを日本へ紹介することもなかったと思います。

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海外の留学生が日本の大学で 生活習慣の違いに苦労しているのを見かけました。

そこで 彼らを勇気づけるためにフットボールの普及を思いついたのです。東京学生アメリカンフットボール連盟を設立。昭和9年(1934年) 明治神宮外苑競技場で日本初の公式試合を開催しました。

 

ポールさんが遺した言葉 

Do your best,and it must be first class.

「最善を尽くせ そして一流であれ」は 聖路加国際病院創設者 ルドルフ・トイスラー博士(以下トイスラー博士)から伝授された思想によって生まれたのです。

 

ポールさんは「祈祷と奉仕」を理念とする「聖徒アンドレ同胞会」と出会い その教えに深く影響を受けていました。

昭和2年(1927年)アメリカの聖アンドレ同胞会の日本支部を設立。翌年から3年間 聖ルカの名にちなむ日本聖路加国際病院再建のため 医院長トイスラー博士とともにアメリカに帰国 募金活動に奔走します。

この活動は 後の「清里農村センター」の資金集めにつながるものでした。

 

1年だけの日本滞在予定が 3年を過ぎていました。その間にポールさんは 日本での「聖徒アンデレ同胞会」の理念の伝道に使命を見出したのです。

 

アメリカでの募金活動が成功し 昭和5年(1930年)に日本聖路加国際病院が再建されました。トイスラー博士が国境を越えた人類奉仕の大事業を成し遂げたことに感銘を受けます

 

トイスラー博士は「お前はもしキリストの名のもとに何かしようと思ったら 一流のものを築け。それは我々が民衆に関わるための至高の聖伝となる。二流のものは絶対にだめだ。一流でなければ人々がモデルとして模範し 受け入れることをしない」と語りました。

とても重みのある言葉だと思います。

 

募金活動でアメリカに3年間滞在中に ポールさんは「米国聖徒アンデレ同胞会」の指導者訓練キャンプに何度も参加しました。

キャンプでは 民主主義とリーダーシップの訓練を行います。10日ほどのプログラムで 多くの参加者に大きな成果が現われるのを目の当たりにしました。

 

昭和8年(1933年)に再び来日したポールさんは「日本聖徒アンデレ同胞会」でも夏期キャンプを富士山麓で開催。その後ポールさんは「日本聖徒アンデレ同胞会」の新たな伝道計画を実践していきます。

 

この伝道計画の実践場所に選ばれたのが 富士山の見える ここ清里「清泉寮」でした。

立教大学の教え子たちも勤労奉仕で支援をして参加したそうです。


昭和13年(1938年)7月24日 本館(図書室 ホール 食堂 職員室などあり)と宿舎3棟が建てられ完成します。

 

ちなみに「清泉寮」の由来は 清里村(元高根町)と大泉村の境に位置することから 両村から一字ずつ取ったそうです。

 

完成してから太平洋戦争が勃発して閉鎖するまでの約3年の間に 約1,000人の学生が清泉寮を訪れたそうです。

 

「アメリカ人のよさ」「日本人のよさ」本当のよさを知っていたポールさんや教え子たちにとって「敵国として戦争で戦うことにどんな意味があるのか?」当時決して口には出さなかったと思いますが疑問に思っていたんだろうなと想像すると とても胸が痛みます。

 

ポールさんは「教え子たちが戦場へ送り出されて行くことにどんな思いだったのでしょうか?」想像することは辞めました。

 

清泉寮が閉鎖されてからのポールさんは 昭和16年(1941年)逮捕されて「敵性外国人」として「すみれキャンプ」に収容され 翌17年(1942年)アメリカへ強制送還となります。

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送還後 アメリカ陸軍に志願。日本語学校に着任して 多くの日系アメリカ人を支援します。

 

昭和20年(1945年)終戦と同時にGHQ将校として再来日を果たします。

 総司令部のダグラス・マッカーサーに同行して日本へ帰ってきます。

 

清泉寮を去る時 留守番を託していた日本人との再会を果たし互いに喜びます。

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昭和24年(1949年)ポールさんは軍から退役をして 同胞会活動と農村センター運営に全力を傾けるようになりました。

 

昭和27年(1952年)「清里農村センター」の名称を改めて「清里教育実験計画(Kiyosato Educational Experiment Project)」の英語の頭文字をとってキープ(KEEP)としました。

4年後 キープは財団法人となり 聖徒アンデレ同胞会から独立しました。

 

昭和30年(1955年)老朽化した清泉寮本館風呂場から出火。全焼した清泉寮を前にポールさんは泣いたと言われています。

多くの人からの募金で建てられたものだっただけにショックを受けたのでしょう。その後村人たちが自発的に募金活動をする姿を見たポールさんは 再建を決意します。

 

アメリカや日本からの献金によって 清泉寮は昭和32年(1957年)に再建され今日に至ります。

 

清泉寮本館正面玄関には「アンデレ・クロス」があります。X字型にガラスがはめ込まれた「十字架」です。キープ協会は 組織上は聖徒アンデレ同胞会から離れましたが その精神は受け継がれているため「アンデレの十字架」が掲げられているのです。

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はじめてポールさんの存在と活動を知った時に「アメリカで数えきれないほどの講演や懇親会で多くの募金活動を行ってきたのに なぜアメリカ人の後継者を育てなかったのか?」とても疑問に思いました。

 

今回 清泉寮を訪れて「キープの活動は日本人とこの地域に住む人たちにあったものでなければ意味がなく 自分たちで運営できてはじめて自立した証になることを理解できました」。 

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「もう自分がいなくなっても この場所はきっと後世にも遺すことができる」と安心して かつて再建の募金活動に奔走した 日本聖路加国際病院で静かに永眠されたのかなと感じると 穏やかな気持ちになります。

神様のお導きに人生を委ねた一生だったのでは」と思います。

 

次回は清泉寮で心が元気になる!場所やもの動物「私のお気に入り」をご紹介させていただきます。

 

つづく

 

 

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