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ここんとこ飯山さんとこのブログがあまりに面白いんで、まるまるいただきます。



以下魂の転載開始。

『殷』から『大隅』まで繋がる歴史の潮流


元気?>皆の衆。 飯山一郎です。よろおね!

私は、中国人が使うような短い文章が好きです。

たとえば、「次は北京でお会いしましょう!」を中国語で言うと、「北京見」。

「私、来月は北京にいます。ですから北京に来て下さい。北京でお会いしましょう!」

これ↑なんかも「北京見」だけで通じるし、充分だ。ゴチャゴチャ言う必要はない。

中国には、「株を待つ」という格言がある。この意味は…、
   
「昔、中国宋の農夫が、切り株にウサギがぶつかって死んだのを見た。
   それ以来、同様にウサギが手に入るのではないかと思い、仕事をしないで
   毎日その切り株を見守っていたが、結局ウサギは捕れなかった。」

これは『韓非子』にある有名な格言だが、日本人は正確に 「株を守りて兎を待つ」 と
言うが、中国人は『株を待つ』とだけ言う。短い。

殷の国に関する有名な言葉は、「殷賑」。
これは「殷は非常に栄えた国で、国中がいつも賑わっていた」というコトだ。

殷の国に関する有名な格言は、「殷鑑遠からず」。この意味は…、
   
「殷が鑑(かがみ)とすべき手本は、遠い時代に求めなくても、同じく悪政で滅んだ
   前代の夏(か)にある。戒めとすべき例はごく身近なところにあるものだ。」

これ、どういうことかというと…、
   
「殷の紂(チュウ)王は、夏(カ)の滅亡に鑑(カンガ)み暴虐の行いを慎めば
   よかったのに、それをしなかったために桀(ケツ)王と同じように国を滅ぼして
   しまった」…

手近な失敗の例は、よく見ておくべきだ、という意味。

ようするに、殷という国は、紂(チュウ)王の暴虐政治で滅びてしまったワケだが…、

日本も、殷と同じように、菅直人の暴虐政治で滅んでしまう可能性は非常に高い!


さて…、
紂(チュウ)王の暴虐政治と、赤坂や六本木での“酒池肉林”を最も心配したのは…、
紂(チュウ)王の叔父、箕子(キシ)だった。

箕子は殷の宰相で、農・商・工・政・法・礼など全てに通じ、箕子が宰相のあいだに、
殷は大いに栄えた…、「殷賑」は箕子のことを賛えた言葉だという説まである。

それで箕子は、甥の紂王の暴虐政治を必死で諌(いさ)めた。

「いい加減にしろ! 国民は怒っているぞ!」 と。

ところが…、
甥の紂王は、この愛国の箕子を悪者にしてしまう。

箕子の逮捕を、官憲に命じるほどだった。
何の罪もない第一秘書の比干(ひかん)などは、強引に逮捕されてしまう。
殷のマスコミも、「箕子のほーがカネに汚い!」などと大合唱。
あげくは検察審査会を悪用し、箕子を強制起訴、逮捕、収監! という悪辣さだった。

のちに殷を倒した周の武王が箕子邸を訪問、政(まつりごと)について質問した時は、
箕子のあまりの博識と徳の高さに驚嘆、武王は箕子を尊敬するあまり家臣とせず…、
朝鮮侯! に封じた。(これが「朝鮮」なる文字が史書に現れる最初である!)
cf. 『史記』 巻38 「武王既克殷 訪問箕子 於是武王乃封箕子於朝鮮」


この後…、
朝鮮侯箕子は、殷の遺民を率いて東方へ赴き、『箕子朝鮮』を建国、礼儀や産業技術を広め、「八條之教」を実施して民を教化、『朝鮮国』を発展させた、という。

cf. 『通典』東夷上 「周封殷之太師之國 太師教以禮義 田蠶 作八條之教
  無門之閉 而人不為盜 其後四十餘代 至戰國時 朝鮮侯亦僭稱王」

殷の国を出自とする箕子が建国した『箕子朝鮮』は、やがて…、

『衛満朝鮮』→『馬韓』→『百済』→『済州島』→『博多』→『高千穂』→『大隅』 と、
順々と移動して行く。

『殷』から『大隅』まで。箕子朝鮮=殷の末裔たちが滔々と辿る道程こそ…、

日本と中国と韓国、この三国が共有する歴史の壮大なる潮流である。


つづく.



おもろいな。

早く続きが読みたい。