次郎風来

次郎風来

風の吹くまま気の向くままに書きたい
わがままな私のブログ。「詩」が中心のブログです。


今夜の俺は眠れない。

しきりに思い出すのは
高校時代。

俺はまさに青春していた。

硬派であり軟派でもあった。

高校の前で下宿していた俺。

学業と柔道に猛烈に打ち込んだ。

洋画が盛んだった。
「ローマの休日」、「エルビス オン ステージ」、「いちご白書」

そして学校を抜け出て政治活動もした。

フォークギターを弾きながら歌った。
フォークの神様の岡林信康の「山谷ブルース」。

朝日ジャーナルを無理して読んだ。

オヤジが下宿に置いていた酒を飲み二日酔いで学校を休んだ。

お昼休み学校から抜け出し下宿でタバコを吸い、わざと学生服に煙を
吹きかけ学校に戻った。

ラブレターは四人に書いた。
俺に近づくと殴られそうだと言われた。

権力に反抗せずにおれなかった。

体育館でオペラ歌手の歌を聴く時に
俺は反抗して体育館の後で大の字になって寝転んだ。

オペラ歌手には悪いことをした。
柔道部の顧問は生活指導の先生だった。

寝ころんでいる俺に顧問は言った。
「風来! どうした? いやなら体育館を出ていけ」

後輩がタバコを吸い謹慎処分か退学それに反発しチラシを友と二人で
夜の学校に忍び込み後輩のクラスの一人一人の机にチラシを入れた。

翌日問題となり後輩のクラスで先生方と討論した。

二年生の時には、新潟から山梨まで自転車にテントをくくりつけ、一人旅。

生徒会の会長に立候補しようとしたが柔道部の顧問の先生に部活を
頑張ってほしいと止められた。

俺は副部長だった。

政治活動をして無力感を味わった。
外に向けた目が自分に向かった。

自己嫌悪に落ちた。
中原中也の詩が俺を慰めてくれた。
太宰治の人間失格に共鳴した。

しかし中也も太宰も慰めてはくれたが俺の人生にとって
力強く生き抜く糧とはならなかった。

人間とは何か?

人間をダイレクトに解いているのは宗教と哲学と知った。

三木清、亀井勝一郎、小林秀雄。
そしてバイブル、その他にも手を出した。

眠くなって来た。

俺の青春!
高校時代に悔いは無い!


次郎風来。

2017/4
 

 

 

 


   涙が
   煌(きら)めきとなって
   落ちていった青春


   禁止されていた
   高校生の政治活動


   学校を抜け出しての
   ジグザグデモ


   機動隊に
   私は
   蹴られ

 


   君は
   腹をなぐられ
   うずくまった



   あの夜
   悔しさで
   流す
   私の涙を


   君は
   綺麗だよと
   言ってくれた


   君も私も
   若かった
    ・
    ・
    ・
   涙が
   煌めきとなって
   落ちていった青春


   君の
   哀しみに満ちた
   瞳が忘れられない。



 

 

 

 
   母の自転車の後ろに乗って
   母の実家に行く。
 
   寒い日だったのだろう。
 
   「次郎、背中の中に頭を入れなさい。」
 
   両手は母の腰をしっかりつかんで。
   私は、温かい母の背に
   頭を入れるのだった。

   実家の帰り道。
 
   自転車をこぎながら
   母は歌を唄っていた。
 
   島倉千代子さんの「この世の花」。
 
   ♪あ~かく咲く花 青い花
     この世に咲く花 数々あれど~♪
 
   実家の道は線路と平行線だった。
 

  蒸気機関車

 

 
   実家から帰る道。
 
   機関車が来る。
 
   私は、手を思いっきり振る。
 
   そんな幼い私に蒸気機関車の人が
   気づいてくれて
 
   私に手を振ってくれるのだった。
 
   それが嬉しくて嬉しくて
 
   蒸気機関車のおじさん!
   ありがとう!
 
   私は母が歌を唄うのを
   それいらい聞いた覚えはない。
 
 
 
※お読みいただきありがとうございました。

 

 


※今夜のブログに歴史の真実を書き残そうと思う!
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東京の新宿には、歌舞伎町という繁華街が有る。

今では、世界中に通じる不夜城であると言ってもいいだろう。
 
しかし、なぜ、そのような名がついたかを知る人はいないだろう。
 
その名前の由来を書こう。
 

 

歌舞伎町2

 

 

 

 

実は、その名の由来には、私の詩人の師匠。

安野幸次(やすのこうじ)さんが関係している。
 
師匠の話はこうである。
 
「角筈町」を改名して「歌舞伎町」になってから、約60年を過ぎた。
 
60年前の新宿での安野さん。
昼間は、喫茶店、夜には酒場を営むお店で、約7年間住み込みで働き、夜学の高校に通わせてもらったという。
 
歌舞伎町になる前、その辺一帯は、角筈(つのはず)町と呼ばれていた。
 
終戦後まだ間もない頃とはいえ、履き物問屋街で、昼間でさえ履き物を仕入れに来る人が歩いているくらいで寂しい町だったそうである。
 
そこで町内会で、もう少し景気の良い名前にしようと言う声があがった。
 
半年から一年くらいかけて、町内会で何度も話し合いが持たれたそうである。
 
いろんな名前が候補にあがった。
その中には、富士見町や、大島出身者が考えた、椿町なども有ったという。 
 
その数、数百、ああだこうだと検討してもなかなか、決まらない。
 

 

 

 

歌舞伎町

 

 
そんなある日、安野さんにお店の主人から
「お前は学校へ行っているのだから、良い名前を考えておくれ」と言われ、「はい、わかりました」と引き受けたものの、名前を考えることほど難しいものはなかったという。
 
その当時の町内会では、歌舞伎座が新宿へ移転してきたら、どんなに活気づいていいだろうねなどの話も出ていたという。
 
また、店の主人の知人にも歌舞伎の関係者がいたこともあり、最後にふとひらめいたのが、「歌舞伎町」。
 
そして主人に「歌舞伎町という名前はどうでしょうか?」
 
主人は「つまらないねぇ」と言いながらも町内会に出かけて行ったそうだ。
 
町内会で検討した結果、「歌舞伎町」、これ以上、良い名前は無いというので、その名前が採用されることになったという。
 
安野さんが学校から帰って来たとき、主人は出かける時とは異なり、満面の笑顔で「こうちゃん、こうちゃん、決まったよ、町の新しい名前が、お前さんの歌舞伎町に決まったよ」と。
 
もう60年前のことだよと師匠は私に語ってくれた。
 


 
2014年09月05日(金)
 
 



 
地方から出て来た、私たち下宿生の多くは貧乏学生だった。
 
友達のところに親からの仕送りが来たと聞けば
わがことのように喜んだ時代だった。
 

そんなある日、先輩が私の下宿に来た。
 
「風来君!食事は終わったかい?」
 
「いいえ、まだですが。」
 
「それじゃ、食べに行こう!今日は俺のおごりだ」
 
「えっ、おごってくれるんですか?」
 
「うん!こうみえても一応、先輩だからな」
 
食堂にはお客さんが誰もいなかった。
先輩と私は長いカウンターに座った
 
「お決まりですか?」
 
「ハイッ! 味噌汁とご飯ね。
  ああっ、それから、ご飯は大盛りにしてください」
 

味噌汁

 

 
「以上でよろしいですか?」
 
「ハイッ!」
 
「さあ、できましたよ、どうぞ」
 
先輩と私は多くを語ることなくもくもくと食べた。
 
私は、具だくさんの味噌汁をおかずに、そしてお醤油をご飯にかけ食べた。だまって食べていたが、先輩の気持ちが嬉しかった。
 
「ごちそうさまでした。」
 
「どうだ? お腹一杯になったか?」
 
「ハイ、ありがとうございます。」
 
お金の無いなかでさえ、私におごってあげようという先輩の心の温かさに、私もいつか先輩のような人になりたいと思った。