旧佐屋宿(愛西市) 壱 「佐屋代官所址」 | 鬼丸のブログ

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気儘に写真を載せてます。

主に、城跡・神社かな。

訪問日 令和元年 6月17日

 

今回訪問したのは、愛西市佐屋町にある「佐屋代官所址」。

国道155号線の「佐屋」信号を東折し、

200m程進んだ交差点付近にある。
交差点北側に、見学用の駐車スペース完備。


駐車場にある佐屋宿に関する解説板。

佐屋代官所址1


史跡

佐屋代官所址(解説板)

 佐屋路が名実ともに天下の往来と

なったのは、三代将軍徳川家光が上洛

の折、道中の宿泊に使う「御殿」を佐屋

に建てたことからといわれています。

佐屋路の隆盛にともない、尾張藩は藩

の海東・海西の一〇九村を治める代官所

を佐屋に設けました。

 街道の治安と、三里の渡しを監督す

る海の関所的な仕事も手がけていたよ

うです。



交差点北東にある跡地。

石碑「佐屋代官所址」と解説板の石碑がある。

佐屋代官所址3


石碑「佐屋代官所址」。
佐屋代官所址4

解説板。
佐屋代官所址5

      佐屋代官所(石碑文)
 わが佐屋は其の昔慶長二十年四月
家康が大坂夏の陣に此処から船出し
大勝した徳川方吉祥の地 藩祖義直

もこの事を嘉し寛永十一年佐屋海道
佐屋宿佐屋湊佐屋御殿を設け 更に
承応二年船番所を置くに及んで佐屋

は天下に知られるに至った其のため

元禄八年奉行所が次で天明元年所付

代官制実施の時にも最初の代官所と

なり海東海西郡中の百九ヶ村七万四

千石余の主色として民政と治安の大

任を司どりつつ明治廃駅迄寛永文久

と二度の将軍の上洛と明治帝の東幸

還幸再幸の三度の大任をも果した

 其後駅路の変革と母なる佐屋川を

失った佐屋には盛時を語る物も其れ

を知る人もない

 われわれは今その代官所址に在り

し日の栄光を偲びつつ其の事を石に

刻し永く後世に伝え語り継ぐことの

資とする

 昭和六十年十月 題字撰文謹書

                     加藤安雄



代官所址の南側の道を東に進んだところが旧佐屋宿の町並みとなる。

佐屋宿は、嘉永11年(1634)に設立され、

寛文6年(1666)に正式な宿場として公認された。

残された絵図等にによると、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠31軒があり、

佐屋街道で最大の規模を誇ったが、

残念ながら、現在往時の町並みは殆ど残っていない。



続く。