訪問日 平成30年 5月 5日
今回訪問したのは、岐阜市奥225-1にある「廣徳山龍峰寺」。
県道167号線を北上し、「雛倉」信号を左折。
路地を180m程西へ進むと、寺院南側に出る。
寺院正面付近。
寺院は、東面している。
「山門」右手前にある「地蔵堂」。
「山門」前にある「龍峰寺縁起」。
龍 峰 寺 縁 起(石碑文)
龍峰寺の縁起は織田信長時代に本巣郡北方城主、安東伊賀守守就が(現在の
北方町了法寺の地に)廣徳山龍峰寺を建立し菩提寺とした事に始まる。
開山紫衣湖叔和尚は安東伊賀守守就の舎弟なり。
天正十年六月七日領地争いから曽根城主、稲葉伊豫守一鉄との戦で稲葉方から
放たれた火が折からの風にて城に及んだ為に守就公は八十余歳にして一族郎党
と共に稲葉陣中に*入り、討ち死した。
稲葉家の武将 村瀬太郎左エ門尉重則が守就公の首を討つ。放火の余燼、龍峰寺
をも焼き、湖叔和尚は懇意の村瀬太郎左エ門の在所の奥村に立退き軍散して
後に太郎左エ門は守就公の首を稲葉一鉄に請い受け、湖叔和尚の引導にて
此の地に葬ると共に北方の山号を移しここに再建した。守就公の戒名は
龍峰寺殿前伊州太守竹巌道足大居士なり。
開山湖叔和尚は文禄四年四月八日八十四才にて示寂、法系は不伝。
慶長、寛永、正保、慶安、承応年間は住職なく二、三年の着住なり。その後、
明暦年間に別川長老が越前大野郡報恩寺より来り、九年余住職して寛文三年
三月十一日遷化。弟子密外首厘が住職。同八年寺を山下に移し、住持八年
余にて退去した。その後、二、三代変わり天和三年鏡島村乙津寺鉄錐長老が
七年住職した折、大垣候表賀正御目見の節は城内乗輿御免を仰せ付けられた。
弟子南源長老、二十三年間住職中に大垣候表賀の格式は鉄錐長老に同じだが、
後に病身にて願い上げ止めた。二、三代の変遷があって昭和六十二年、武儀郡
武芸川町恵利寺より現住十四世東海宗光和尚を迎え現在に至る。
平成四年九月 敬老記念建之 村瀬春夫
「鐘楼」。
「本堂」。
「本堂」の左側(南側)に御堂等が並んでいる。
右から順に参詣する。
「薬師堂」。
右「地蔵堂」と左「馬頭観音」か?
社。
詳細不明。
続く。