凝念・静慮・三昧という一連の思考、瞑想の流れの究極は三昧です。


般若心経 般若波羅蜜多の巻その9では、三昧とは、

「静慮が外見上、その思念する客体ばかりになり自体をなくしてしまった

かのようになったときが三昧と呼ばれる境地である」

と紹介しました。


三昧は五官の働きを介さず、純粋の思考だけで得られた直感ですが、

想念ではなくて客観的対象物そのものになっている状態だそうです。


想念の中味が具体的な想念の対象そのものになっている、

ということでしょう。


非常にわかり難い説明ですが、抽象的な思考の描き出したものが

具体的なものに成り代わっているということでしょう。


具体的というのは遠慮した言い方で、ここはむしろ具体化させる、

とでもいった方がいいでしょう。


具体とは全体を完全に具えていて、形、内容を感覚し得るものという意味

です。

つまり目で見え、手でふれ、舌で味わうことができるということです。


三昧とは「想念」を具体化させ、完全に全体の内容、形を備えたものに

変えるる技術です。


これが般若心経にある「空」を五感ー五官ー体で捉えている、すなわち

体得しているということでしょう。


この流れを般若心経では空即是色と表現しています。


さらに、般若心経では色即是空とありますから、可逆的でなくては

なりません。


ということは、形あるもの、目で見え、耳で聴け、手で触れ、舌で味わう

ことができるものを、体で感得できる状態から消し去るということが

できなくてはなりません。


五官ー五感ー記憶ー意識から消し去ることが自在にできなくては

なりません。

これができれば色即是空が体得できたことになります。


これで、色即是空 空即是色の完成です。


このあたりは、般若心経 空の巻に書いておきました。


三昧とはこういうことです。


これができるようになれば、仏道への入門が可能になります。

ここから先が仏道修行、お釈迦様の瞑想への道です。


仏道は哲学ではありません。


これが市矢太の理解です。